第8章 南海のほとりで(後編)
〜幸せのかたち、心のかたち〜

 何通りある? 世の中の幸せの形は―――――。お金持ちになったり、有名人になったり、誰もが羨むような素敵な恋をしてみたり。あちこちを旅して回って、普通の人が行ったことのないような秘境を踏破してみたり、夜、ブルースビストロのステージに立って、素敵な歌声を響かせてたくさんの人たちの喝采を浴びたり‥‥‥。望むと望まぬとに関わらず、人は無数の選択肢の中からその幾つかを選び、それを長い人生の拠とする。大抵のことが思い通りにいかない、限られた運命の中で。
 運命は巨大な河の流れのよう。あらゆるものを呑み込んで、押し流し、大海へと攫ってゆく。人は誰しもその奔流に抗えず、限定された生き方を強いられることから免れることはできない。しかし、人は、自らの力が及ぶ範囲内においてのみ、その流れを遮ることが出来る。運命を変えることが出来る。その僅かな可能性の中で人は、必死に足掻き続ける。ほんの少しでも確かで、幸福な未来をつかみ取るために。

 

 

 

 アイリは窟内を駆け抜けた。
 身を翻して迫りくる魔の手を躱し、光陰の中をただひたすら奥へ、奥へ‥‥。途中、幾度となく、オーガの群れに行く手を阻まれた。しかし、アイリの弓は冴えていた。オーガ族の筋肉の鎧のような胴体に矢を射ち込んでも、彼等は動じない。だから足を狙う。射抜けば、その身を支え切れず、その場に崩れるオーガたちが続出した。なるべく、無駄な矢は使わなかった。蛆虫どもは反応が鈍く、疾走するアイリを捉えることは出来ないようだったし、蟹たちはそのテリトリーにさえ踏み込まなければ、進んで襲ってくるような気配はなかった。いずれも洞窟の住人たちは皆、動きが鈍重で、アイリの身のこなしについていける者はいなかった。極力、余計な戦闘は避けて進み――――――――そうして再び、洞窟最深部に辿り着いた。

 

 

 冷たい空気が肺の中に染み渡る。
 暗闇から、翼の羽撃き音。浮かび上がる巨大な影。
 さっきの一戦を記憶しているのだろうか。怪鳥の発する寄生の中に、嬉々とした成分が含まれているように思われる。はためかせる飛膜の翼は揚々と。争いを好むかのような獰猛な牙を二度三度、噛み合わせた。
(どこから攻めればいい‥‥‥‥)
頭、体、翼‥‥‥‥‥。翼を広げるとかなりの巨体となるだけに、その生命力の高さは計り知れないものがある。それにばかり気をとられて、牙や爪への注意が疎かになってはならない。その一撃は、たった一度で、アイリの体に致命傷を負わせる程の威力を持ち合わせている。
(考える必要は‥‥‥ない!)
まず動け。そして動きながら、その中から活路を見出せ。
 二度目の対峙。先んじたのはアイリの弓だった。
「ビュン」
放たれた矢は、右の翼の中央よりやや胴体部に近いところに突き刺さり、ギルバートは小さな呻き声をあげた。
 確かな手応え。しかし。決定的な一打には遠く及ばないようだ。
 替わりに相手の攻撃。ギルバートは振り回すように大きく、左の翼を薙ぎ払った。
 旋風。
 風の衝撃波!
 アイリがひるんだ間髪容れず、飛び掛る。
 爪の攻撃!
 長い4指の切り払い。アイリは山猫のような反射神経で、辛うじて身を躱した。
 すかさず反撃。
「ビュン」
 二本目の矢は、右の翼の背部で弾かれた。翼に滾る魔力の強さが窺い知れる。攻にも守にも、風の元素が要となっているのだ。
 呼吸も体勢も整える間すら惜しく、アイリは攻撃の手を急がせた。なるべく距離を取って、安全な位置から。この際、矢の精度は、問わない。外れても、弾かれても、とにかく数で稼いで、休む時間を与えない。滅多矢鱈に討ち捲った。
 消耗戦―――――。
 アイリの体力‥‥‥または矢が、尽きるのが先か、ギルバートの生命力が尽きるのが先か。ただ一つ違うのは、アイリの方は、たった一度のミスが致命的な結果になり兼ねない、ということ。
 幾度となくギルバートの爪に襲われながら、既の処で躱すアイリ。生と死の間に横たわるぎりぎりの境界線に臨んで、それでも攻撃の手を弛めない。
 と――――――――――ギルバートがその場に佇んで、何回か翼をはためかせる動作をした。
 その羽撃きの中。
 ポトリ。
 翼の陰から落ちた、何かがある。
 不審に思って見てみると、それは‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥折れた矢だった。
 一方には矢羽、一方には鏃。竹製のシャフト部で二つに分かれて、岩肌に落ちると、張り詰めた戦場に清涼感ある、不思議な音が響いた。
 初め、それが何のことか解らなかった。
 だが。
 刹那の間、思案を廻らした後。その事態を飲み込みこまさせられて、アイリは愕然とした。
 よく見ると、それはアイリが一番最初に放ち、見事、ギルバートの右の翼を討ち抜いていた筈の矢だった。
 矢はそこから二つに割れて落ち、傷痕は元の通りに塞がっていた。眼前の悪魔は何事もなかったように、巨大な飛膜の翼を羽撃き打っている。
 生命力再生魔法―――――――俗に「リジェネレーション」と呼ばれるこの魔法は、体内に宿した元素の働きによって体細胞の新陳代謝を活性化し、傷口等の治療に驚異的な回復「再生」を齎す魔法である。これを用いることによって、この巨鳥の悪魔は戦闘中にありながら、「傷口を治療する」ということを、同時にやってのけたのである。
 その芸当だけでも然ることながら、このことは、消耗戦を繰り広げるアイリの戦術が破綻していることを告げていた。
 一方は巨鳥の悪魔。翼を自在に操って中空を駆り、獰猛な爪や牙の一撃は、たった一度でアイリを致命傷に追い遣れる。その上「リジェネレーション」まで使いこなして、戦闘の傷を治癒しながら戦い続けることができる。
 一方は人間の少女。非力な腕力、攻撃は弓矢だけが頼り。限りある体力に、限りある矢数。そして今、時間さえも限りがあることが判明し、時が経てば経つほど戦闘は、敵に有利に働くようになっている。
 数々の悪条件。その上、一縷の望みも絶たれ。その精神的圧迫感。
 もはや、この戦闘は絶望的だった。
 全身に滲み入る、異様な量の汗をアイリは感じていた。
 結果は‥‥‥‥‥‥目に見えている。
(何か手は‥‥‥)
 必死に活路を見出そうとするが‥‥‥‥‥‥‥無かった。
 とりあえずその、額にかかる分だけ拭って、虚ろに次の矢を取り出そうとした。
 そこでアイリは、思わず矢筒から矢を取り損なう‥‥‥。
(‥‥っ!)
 焦慮と狼狽。
 救いようのなさに苛まれ。
 「徒労」―――――肉体が本能に伝えていた。勝ち目のない戦い―――――どうしようもない運命に抗うために酷使する、体力の無意味さを‥‥‥‥‥。
 その時だった。
 どこからか声が聞こえた。
 まるでアイリの脳に、直接語りかけてくるような‥‥。
「‥‥‥‥エ‥‥‥ころ‥てくれ‥‥‥‥‥‥」
「‥‥!」
瞬間、目が覚めるような感覚。疲労と焦燥で霞がかっていた思考が、全視界が、一瞬にしてはっきりと広まっていく。
(誰‥‥?)
その明瞭な意識でアイリは声の主を探そうとした。しかし、辺りには他に誰もいなかった‥‥‥。
 そう。
 他には誰もいなかった。
 自分と‥‥‥‥‥‥‥‥‥目の前の悪魔以外。
 ‥‥‥‥まさか‥‥‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥‥‥ギルバート‥‥‥‥‥‥‥‥
 悪魔はその場に立ち竦み、変わらず、翼を羽撃き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 エドは祈り続けた。時々、洞窟の方を見遣って、不安に苛まされながら。
 そして。初めて会った時のことを想い出していた。

 

 

  同世代の子―――――それも男の子。エドは生まれて初めて見た。不安で父の足にしがみつき、後ろに隠れてた。

 

 ――――――エディ、ほら。挨拶なさい―――――――

 

緊張でこわばって、握り締める父のズボンがしわくっちゃになってしまったの、覚えてる。

 

 ――――――ハハハッ、だめみたいだな、どうにも。照れちまって―――――――

 

優しかった父さん。がさつだったけど。大きな手をしていた。

 

 ――――――まだしょーがないだろ。このくらいの子は―――――――

 

ギルのお父さん。あの頃はギルのお父さんも健在だった。父よりも細くてスラっとしていた。

 

 ――――――ギル。エディちゃんだよ―――――――

 

促されて少年は前に一歩、歩み出た。

 

 ――――――よろしく―――――――

 

「‥‥‥‥‥‥」

 

言えばいいのに、その一言がなかなか出せない。「こんにちは」って。ただそれだけのこと。でもだめだった。どうやっても、だめだった。わたし怖くて。どうしていいか、分からなくて。ずっと父の後ろにしがみついていた。「こんにちは」。ちゃんと言えばよかった‥‥‥。この時はまだ、確か私より背、低かったのね‥‥‥‥‥。
 それが二人の初めての出会い―――――。 

 

 

 

 幼い頃からずっと二人、一緒だった。だからわかる。ギルバートのことは何でもわかる。まるでひとつの体を半分に分け合ったよう。離れていても感じ合える。あの人、今も洞窟の奥深くで息を潜めて獲物を求めて彷徨っている。そんなこと、望んじゃないのに‥‥‥。
 姿形は変わっても、心の形は変わらない。ギルバートが、優しかったあの人が、望むこと‥‥‥。
「アイリさん‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
エドは祈り続けていた。

 

 

 

 

 

 

「ギルバート‥‥‥‥‥」
 迸る感情の渦が、周囲の元素たちを強く打ち付けていった。
 元素たちはざわめいて。悲愴と不安、怯えていた。
(あわてないで‥‥‥‥‥みんな、迷子にならないで‥‥‥)
 元素のことでわかったことがある。「元素の声に耳を傾ける」とは、いうならば自然との交感だ。元素たちは思っている以上に雄弁に語りかけてくる。喜び微笑んだり、悲鳴を上げて泣き叫んだり。それら元素たちの想いを聞いてあげて。すればどうしたがってるのか、分かるから。
 息を吸って、吐いた。
 共鳴する元素たち。落ち着きを取り戻す。それらは偉大な指導者に導かれる群集にように、或いは、高きから低きに流れる水のように、皆、自らが行き着くべき所を知っている。
 射位に入る。
 両の足をしっかり踏まえ、大地に根差すように。腰を据え、肩を沈めて、背柱は真っ直ぐ。縦は天地を支える柱にして、横は万事自在に対応できる柔和さを。そして元素たちに呼び掛ける。
 呼応したそれらは大気から、大地から。一つになるように。集まってきたそれらを丹田に―――――旋回。全身に行き届かせ、漲らせる。
 呼気を整える。矢を番えて、弓を体の正面に置く。頭を回らせ、相手を見定める。
 ギルバートは襲って来なかった。その場に佇み、飛膜の翼をはためかせていた。
(‥‥‥‥‥終わらせるから)
 アイリは正しく弓を引く。
 正面に構えられた弓矢。そのまま高く、両拳を頭上に掲げる。弓束を握り締める左は弓手。ゆっくりと力強く、前方に押し出す。右手は妻手。弦の張力を認めながら、添えるように引き絞る。矢は体と平行。水平を保つように両拳は運ばれる。腕の力に頼り過ぎず、体全体の筋力を使って、左右均等、開くように。
 満を持す。
 縦横の十文字は、筋繊維が織り成す美しき人体の芸術。それは咲き誇る一輪の大華。その花が雄々しき花冠を広げた時、弓と体は一つになる。

 

 アイリは矢を射掛ける。
 一矢、二矢‥‥‥。
「ギエッッ」
 定められた的は右翼中央。全て必中。元素を込めて放たれた矢が飛膜の翼を貫く度、ギルバートは小さな呻き声を上げた。瞳は山吹色に燃えていた。

 

 アイリは矢を射掛ける。
 五矢、六矢‥‥‥。
 竹の矢は一本一本、矢筒から取り出す時に擦れて乾いた音を立てた。
 八矢目の矢傷を受けて。遂にギルバートの羽撃きは止まった。羽撃こうとしているが、傷を負った右の翼が左の翼と噛み合わない。左右バラバラ、ちぐはぐになったその翼の動きは「羽撃く」というより――――――「?く」だった。そして、それは終焉だった。
 翼は、もはや風の元素を紡がなかった。
 あの羽撃きは「儀式」だったのだ。あの作法によって、怪鳥の悪魔は元素を集めていたのだった。
 元素を失った悪魔は、もう風の魔法は使えない。飛翔して襲い掛かることも、リジェネレーションも行えない。脆弱な後肢が、ただただ体躯を支えるのみ。動かなくなった翼を必死にばたつかせて「ギエエ‥‥」悲しい鳴き声を上げるだけだった。
 最期の時が近づいていた。

 

 アイリは十一本目の矢を射掛ける。
 狙いを定めて。右腕に集めた、ありったけの元素を矢に注いでいた。弓は軋んで音を立てた。
 「離れ」――――――アイリの体に残された全ての元素、託されるように、矢は放たれていった。急速に、アイリの瞳から山吹色の色素が失われていく。代わりに零れ落ちる一筋の―――――――「残心」。
 光の矢が突き抜けた。矢は悪魔の―――――元よりも、小さく細長くなった頭部の軟らかい頭蓋骨を貫き砕き、一条の光の軌跡を描いて、遙か洞窟の闇へと消えていった。
 静寂が訪れた。

 

 他に‥‥‥‥‥‥選択肢があっただろうか‥‥‥‥
 それは‥‥‥掌の器ですくった水のように‥‥‥‥‥‥‥‥アイリの手からこぼれて‥‥‥‥‥

 

 断末魔の叫びを上げる間もなく。
 羽を広げたまま、大地に崩れる悪魔は受身を取ることもない。糸が切れたようにそのまま、重力の為すがまま‥‥。
 伏して、動かなくなった。
 その頭部や翼の傷痕から、まばゆい、光の泡のようなものが溢れて―――――――――――大量に、大量に、溢れていた。
 戦闘の緊迫から解き放たれたアイリは、その弛緩と、同時に沸き起こる疲労、全身に圧し掛かる虚脱感を感じていた。そして眺めるようにただ、光の泡を見送っている。その光が立ち上りつつ、不意に人の形を象るように―――――。
(えっ‥‥)
 錯覚‥‥‥だろうか‥‥
 疲れのせい‥‥?
 ぼんやりしていたせいかもしれなかった‥‥
 光の泡が形作る人間の姿。
 気づいた時にはもう、消えてしまっていた。
 気のせい、だったのだろうか‥‥
 だけど―――――。
 それは、確かに聞こえた。

 

 

 

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ありがとう‥‥‥‥‥‥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シュトラセラト一大きな樫の木の下で。
 男は若い勇気を振り絞った。
 女は、視線をどこに向けていいかもわからず、俯いて。
 男の顔が真っ赤なのが見える。
 でもそれ以上に、自分の方がずっと赤くなっているかもしれないと感じていて。
 それは17歳の秋の季節。
 それから二人は一緒に暮らし始めた。

 

 

 金銭的には決して豊かな暮らしではなかった。見習い騎士である夫の稼ぎは知れていた。
 けれど、二人は互いに一緒にいることが何よりの幸福だった。貧しくとも、かけがえのない豊かさで日々は満たされていた。

 

 

「少ないがこれを‥‥‥」
老人はお礼を渡そうとした。皺だらけの封筒に包まれた。
 男は笑って言った。
「いいんですよ。そんなつもりじゃないし」
騎士として当然のことですよ、と。まだ見習いの騎士でしかない男はお礼を断った。
 老人は困惑そうな表情を浮かべて、差し出したものを引っ込めようとしない。
「お前さんのとこだって裕福なわけじゃないだろ? お礼ぐらい‥‥」
「そんなことより」
言葉を制す。
「あいつらがまた何かやってきたら、言ってくださいね。何度でも追っ払ってやりますよ」
笑って言った。

 

 

 夫のすることはいいことだと思う。けれど妻は、少し不安。夫の身に「もしも」のことがあったら‥‥‥。
「あなた。あんまり危ないことはやめて下さいね」
「ああ。わかってるって」
妻の不安を余所に、朗らかに笑って夫は言った。

 

 

 

 ある雨の夕暮れ。
 長雨が降って一週間くらい。辺り一帯水浸し。外出も儘ならない。
 街外れに家を構える二人は、買出しにも行けず、食料も灯油も尽きつつあった。
 空腹と暗闇。
「真っ暗だねぇ‥‥‥‥」
「‥‥‥ああ」
「おなか、空いたねぇ‥‥‥」
「‥‥‥ああ」
 誰もせいでもないし、どうしようもないこと。無気力が二人を支配しつつあった。
 おまけに家はボロ屋。強風が吹く度、ミシミシ軋んで今にも壊れそうな音を立てた。
 雨漏りが酷かったので、部屋のところどころに容器を置いた。が、それらが何とも言えない淋しげな音楽を奏でてくれる。
 湿っぽいこの暗闇に、まるで家の中まで侵食されたよう。このまま家ごと呑み込まれてしまいそうで、恐怖を掻き立てられる。
 二人は部屋の隅で毛布にくるまり、身を寄せ合った。
「ガタンッ!」
不意に発せられた物音。二人の身が竦む。
(ついにガタがきたのかもしれないな‥‥‥)
男は、暗闇の中で不安げな様子の妻に、毛布を巻きつけた。
「ちょっと見てくる」
音は戸口の方からだった。灯りをつけて、男は戸口に向かって行った。
 毛布の中で、失われた一人分の体温を感じていた。ほんの数メートルだけでも、隔てられて一人にされるのが、女は不安だった。激しく打ちつける雨音や風の音。さっき灯されたランタンの明かりは、一瞬だが、暗闇に慣れてしまった目に鮮烈な陰影を投げかけて、却って心許なさを募らせる。照らし出されて浮かび上がる、見えるところと見えないところ。揺らめく炎のその先に、漆黒を纏った悪魔が潜んでいて、今にも襲い掛かってきそうな‥‥‥‥。
 戸口から物音が聞こえる。‥‥‥‥‥夫が戻ってきたのだ。
「あなた、大丈夫!」
不安にかられて声を出さずにいられない。早く安心が欲しかった。
 しかし夫の返事はない。戸口で揺れる、ランタンの明かりだけが微かに届いていた。
「あなた‥‥‥?」
「‥‥‥‥ああ」
呻くような声? 何か様子がおかしい‥‥。
 毛布を剥ぎ捨てて、立ち上がった。必死な思いで戸口に向かう。不安で心臓が張り裂けそう。暗闇の中で何かに足をぶつけた。激痛が走る。けど、それより何より気持ちが強く追い立てられる。(何かあったのかもしれない‥‥‥)微かな明かりだけを頼りに、夫の元へ急いだ。
 戸口に出ると、そこはランタンの光が溢れ、余すことなく部屋の隅々まで照らされている。扉を閉めてなかったので、耳を打つ雨音の激しさが増した。夫はそこにいた。
「どうしたの‥‥‥」
「ちょっと見てくれよ」
見るとテーブルの上に大きな木箱が置かれている。中には‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥肉や野菜やパン、油などが詰め込まれていた。
「どうしたの、これ‥‥‥」
驚いてエドは尋ねた。こんなにたくさんの食料や灯油‥‥‥。これだけあれば一週間は持ちそうだ。こんなもの、どこから‥‥‥‥‥?
「いや‥‥‥‥‥外に置いてあった」
「ぇええ?」
頬を掻きながら、ギルバートはあっけらかんと答えた。
「まだあるぞ‥‥‥」
続いて外から、樽を抱えてきた。ギルバートは初め「お酒かな‥‥?」と思って持ち上げたが、少し軽い。液体の詰まった樽はこんなもんじゃない。中を開けると‥‥‥‥‥‥。
「おおおおおっ!」
思わず喚声を上げた。
「すげええぞ! これ、キングクラブだぜ」
キングクラブは高級食材、シュトラセラトの珍味。洞窟奥深くなどに生息し、捕獲は極めて難しい。ホテル「オクトパス」でも最高級の食材として扱われ、一般の家庭の食卓ではまずお目にかかることはできない。近縁種が偽装販売されていたりもする。
「しかも生きてるねえ、コレ」
「きゃぁ!」
カニを差し出して、戯けてみせるギルバート。動きは鈍いけど、確かに生きていた。‥‥でもそんなことより、エドには素朴な疑問が拭い取れない。
「‥‥ねえ、あなた。こんなの、一体どうしたの‥‥‥‥?」
尋ねては見るが、ギルバートにも何がなんだか、さっぱり‥‥‥。おそらく、どこかの誰かが、この雨の中、ここまで運んできて、置いて帰った、と思われるのだが‥‥‥‥‥。それにしても、何のためにここまでするだろうか。しかも、こんな大雨の中、こんな街外れの家まで。
 でも、それは逆なのかもしれなかった。この長雨のせいで、街外れのこの家じゃ、満足に買出しにも行けやしない。実際、家の中ではあらゆる物が不足がちになっていた。それを慮って、親切な誰かが、わざわざ食料や生活用品を、ここまで運んできてくれたのかもしれなかった。‥‥‥‥‥でも一体、誰がこんなことを?
 ここまでしてくれる良心的な誰かの存在に、エドは心当たりがなかった。‥‥‥‥‥いや、あり過ぎて分からなかった。困ってる人を見るとほっておけない性分のギルバート。彼が今までに助けた人の中の、誰かがしてくれたことに違いない。でも、その中の誰かとまでは特定できそうになかった、数が多すぎて把握しきれてなかったから。
「しっかし、わざわざ帰ることなかったのになあ。せっかくだから、一緒にご飯、食べてけば良かったのに」
ギルバートは不満そうだった。帰られたら、お礼も言えないし、そもそも誰だか分からない。それに何よりこんな雨の中帰っていくなんて大変じゃないか。水臭いじゃないか‥‥‥。少しむくれていた。
「‥‥‥‥‥ぷっ」
初めきょとんとしていたエドも、思わず吹き出してしまった。そんなギルバードの様子があまりに奥床しくて、可笑しくて。‥‥‥‥‥ほんっとにギルったら、どこまで人がいいんだろうか。
 まだぶつくさ言ってるギルに向かって、
「ええ。ほんとね‥‥」
宥めるように、笑って相槌を打つ。さっきまで暗闇の影に怯えていたことなど、エドはもうすっかり忘れてしまっていた。
 幸せだった。
 金銭的には決して豊かな暮らしではない。見習い騎士の夫の稼ぎなんて、たかが知れているけれど。
 二人にとって、一緒にいることが何よりの幸福だった。貧しくとも、かけがえのない豊かさで日々は満たされていた。
 これからも、こんな日が、ずっと続いていくと信じていた‥‥‥。

 

 

 

 世界には何通りの幸せがあるだろう。
 お金持ちになったり、有名人になったり、誰もが羨むような素敵な恋をしてみたり。あちこちを旅して回って、普通の人が行ったことのないような秘境を踏破してみたり、夜、ブルースビストロのステージに立って、素敵な歌声を響かせてたくさんの人たちの喝采を浴びたり‥‥‥‥。その殆どが、私には手に入れることができない幸せなのだろう、とエドは思う。
 でも、別にいいと思った。欲しいと思わなかった。
 私にはただ、あの人がいて。隣でいつも、笑っていてさえくれればそれでよかった‥‥‥‥‥‥‥‥‥他になにも、いらないと思っていた‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 

 

 

 

 

 

 

 

 西の空の太陽が赤い射光を投げかけて、夕暮れの退廃的な世界が広がっている。だが、それもじきに終わる。太陽は沈む時は速やかで、あとに光を残さない。瞬く間に辺りは暗闇に包まれる。
「これであの人も安らかに天へ昇ることができると思います‥‥‥‥‥」
エドは語った。
「次の世でも、きっとまた彼に出会いますわ。天もそれくらいは、善くしてくれると思います‥‥‥‥‥」
(エドさん‥‥‥)
アイリは言葉を継いだ。ギルバートさんをあんなひどい目に遭わせた奴等も、いつか必ず罰せられる。神様はちゃんと見てるから! 絶対に、もっと厳しい罰を受けるはずだから、って‥‥‥。
「アイリさん‥‥‥‥本当にありがとう‥‥‥何から何まで‥‥‥‥‥‥‥感謝してもし切れないくらい‥‥‥‥‥‥。どうかこれからあなたの進む道に、幸運ばかりが訪れますように‥‥」
 エドと別れた。

 

 

 歩きながら、考える。
 自分のしたことが本当に、正しかったのか、どうか。
 あの時。ギルバートさんの想いが伝わってきて‥‥‥‥。だから、彼にとっては、よかったかもしれない。けど。エドさんにとっては?
 どんな形でもギルバートさんが生きていてくれれば、それを希望に、生き続けることができたのかもしれない。たとえそれが、絶望だったとしても。心の糧となるなら、意味のないことなんかじゃない。あたしは、その希望を失わせてしまった‥‥‥?
 アイリは考えるが、いくら考えても、この問いの正しい答えは出せそうになかった。それに、事態はもう取り返しのつかない結末を迎えている。ただ心に思うのは、これからのエドのこと。
(エドさん、大丈夫だろうか‥‥)
不意に胸を過るものがあって、アイリは振り返った。‥‥‥‥‥‥すると。
 3、40メートルほど向こう。今アイリが歩いてきた、そのままの距離。エドはまだ、そこにいた。別れた時と同じ位置、同じ姿勢。まるで時間が止まったように、佇んで‥‥‥。
 アイリはその表情を伺おうとした‥‥‥。しかし、さすがのアイリに視力をもってしても、夕暮れと少し俯き加減の前髪の影に隠れて、その様子までは分からない。
(泣いている‥‥‥のかな‥‥‥‥‥)
そばに行って、何か声をかけたかった。
(そもそも、あたしなんでこんな簡単に、お別れしてしまったんだろう‥‥‥?? もっと、話せばよかった。もっと何か、言うべきこと‥‥‥‥たくさんあったはずだった)
 ふと思った。
 でも今となってはそれももう不可能のように思える。
 エドのところまではたった3、40メートル。引き返せばすぐ、歩いて戻れる距離だ。しかし、それは隔てられ、今や永遠より長い距離によって分かたれている。アイリが決して戻ってはならない道だった。
 エドは同じ姿勢で立ち尽くしている。手を前で組んで、少し俯きながら。‥‥‥そのまま動かない。
 アイリは自分の無力さを噛み締めながら、前へ進み続けた。カーペットを開くことも忘れていた。
 覚えていても開くことなどできなかったかもしれない。
 ただ、ひとつ。理解させられた事実が頭を占めていたから。
 ―――――――もう何も、できることはない。

 

 

 

 約束の日の朝。言われた通りお店に行くと、ドレスを仕上げたセブローが迎えてくれた。
 ドレスは出来は素晴らしいものだった。
 思わずアイリも息を呑んだ。絵本の世界から飛び出してきたような‥‥‥なんというか、最高級のドレスのようだった。
「あとお金は要らないから」
セブローは言った。自分の頼みごとを引き受けてくれたから、それが代金だから、と。
 ドレスを受け取り、換わりに魔法のカーペットを返した。
 それから二人は、他愛のない話をした。お裁縫のことや、店にくるお客のこと。入れてくれた紅茶が思いのほか、おいしかったことから、なんていう銘柄だ、など‥‥‥。そして、
「アトボンによろしくな」
月並みな挨拶を交わして、お店を後にした。

 

 

 

 港街の風に吹かれて、テレポーターへと向かう。
 これでシュトラセラトともお別れ。そう考えると少し、感慨深かった。
 短い滞在だったけど、色んなことがあった気がする。キャラバン隊にお世話になったり、空飛ぶ絨毯に乗ったり。ブルンネンシュティグ以外の街を歩いて、肌で感じたこと。今、アイリの小さな冒険が終わろうとしていた。
(そういえばエドさん、お店で服を注文したのかな? それとも出来合いのを買っていった?)
胸に想うは、悲しい物語の結末。
 ‥‥‥‥‥‥‥ううん。だったらセブローさん、なんであんな遠いところまでわざわざ、材料採りに行っていたの?‥‥‥‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥‥‥‥たぶんエドさんは、注文していった‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥セブローさんはエドさんのために、リットリンまで行っていた‥‥‥‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥‥‥‥エドさん、いつか出来上がった服取りに、お店にやってくるよね。そしたら‥‥‥‥‥‥‥‥
 その時は‥‥‥‥‥‥‥二人がまた、出逢う時。
(あとはセブローさん、上手くやってくれるよね‥‥‥‥)
 祈るしかなかった。
 希望的観測かもしれなかった。
 でも。
 そんな未来があって、いいと思う。
 そんな未来を期待したかった。
 それが今のアイリにとって。‥‥‥‥‥いちばん、優しい未来だった。 

 

 

 

 ドレスをアトボンに。
 偶々アトボン一人だったから、丁度いいと思って。
 でも折から帰宅したアリエルに居合わせて「なにそれ〜〜?」見つかった。
「ぇえええ〜? あたしにくれるの〜!」
アリエルがぱっと目を見開いて、
「ありがとう!」
それから目を細めて、普通の女の子のように喜んだ。
 孝行娘だって、年頃の女の子。同世代の他の子たちみたいに、買い物したりおしゃれしたり、新しく出来た甘味処をチェックして、友達とあの店がいいだのこの店がいいだの、したかった。勿論別に、お父さんの世話がイヤってわけじゃないけど。
 ドレスを胸に抱えて喜びはしゃぐアリエル。アトボンは「いつも世話になってばかりで特に何もしてやれてないからな」などと、労いの言葉をかけていたが果たしてアリエルに聞こえていたか、どうか。
 アイリは親子二人の間に割って入るような、無粋なマネはしたくないと勝手に気を揉んでいたが、そんなことこの際どうでも良さそうなことだった。アトボンも、厳ついけど、優しい笑顔で娘を見つめている。
 アリエルったら‥‥‥‥‥ドレス抱えて、小躍りしちゃって‥‥‥‥。
 それを見るとアイリも、胸の重たいものもすっと軽くなっていく気がした。
 アリエルがあんなに喜ぶなんて、私、とても、いいことをしたのね‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。

 

 ただアトボンが「何かあったのか?」不意に聞くから、
 アイリは「ううん、別に何も」と答えた。
 するとアトボンは、
 「そうか」
 と言って、それきりだった。

 

 

 

 数日離れていただけで、古都の街並みが妙に懐かしい。シュトラセラトも似ているけど。石畳を歩きながら街の風を肌に感じ、不思議とそう思った。
 街の賑わい。種々雑多な人々が入り乱れ。喧嘩腰なまでの活気。街路樹や、バイオリンの調べ。街の至るところに流れる河の水が、太陽の光を浴びてきらきら輝いて、きれい‥‥‥‥。
 ふと、誰かに呼ばれた気がして振り返る。
「?」
 誰もいない。気のせいだったろうか?
「ぉおお〜〜〜い!」
 今度は確かに聞こえた。
 ゆるやかなストロベリーブロンドの巻き髪、小さい肩、ベルラインドレス‥‥‥。人混みの中から浮かび上がる、あのシルエット。
「れもんちゃん!」
アイリは駆け出していた。

inserted by FC2 system