第8章 南海のほとりで(中編)
〜他人のために〜

 南フォーリンロード、テレット・トンネル出口付近。
 古都ブルンネンシュティグと港街シュトラセラトの間には巨大な山脈エルベルグが横たわり、テレット・トンネルはそれを南北に貫く隧道である。トンネルといっても中は殆ど天然の洞窟で、いまやモンスターの巣窟と化しているので通行には適さない。その昔、古都の富豪が「テレット・トンネルを抜けてシュトラセラトに着き、一番最初に帰ってきた者に賞金を出そう」と提案し、腕自慢たちが集まってレースが行われた。しかし、死者やリタイア続出でレースにならず、2回目は開催されなかったという。現在でも往来するのは専ら、冒険家や探検家の類である。人の往来が少ないといってもこの地は一応、北にブルンネンシュティグ、東シュトラセラト、西ビガプール、極東部三大都市へと続く要路である。だから、とあるキャラバン隊がここに宿営地を構えたのも利に適ってのことであった。
 夜が更けて。隊商のメンバーも馬たちも殆ど床に就き、炎を囲んで談笑していた何人かの者も、そろそろ火を消して就寝しようかと思った頃である。突然、誰もいないはずの暗闇から、声がした。
「あのぉ‥‥‥」
「キャア!」
浮かび上がる影。びっくりして隊商の一人が悲鳴を上げた。
「すんませんけど、ここにセブローさんって人、いませんか‥‥‥‥」
影は悲鳴に身動ぎもせず‥‥‥‥‥というより、疲れて切って余計なリアクションをとる気力もなさげに、話しかけてきた。
「なん‥なんだ君は‥‥?!」
アイリだった。
 アイリは、ドレス作りのためにシュトラセラトまで来て、セブローという人が西リットリン半島にいるというから探しにやって来て、でも思いのほか道が遠くて、辿りつかなくて、帰ることもできなくなって、さまよってたら夜になってしまったことや、あと昼から何も食べてなくて空腹で死にそうなことなど、ここまで至った事情を説明した。
「君は‥‥バカなのかっ!」
言葉を詰まらせつつ、怒られるというより驚かれた。それから冷静になって、ちゃんと旅支度をしなさい、目的地までどれくらいかかるのか、食料や水は充分なのか、事前の準備をぬかりなくして、それでも不測の事態があった時どうするのかとか、あとなるべく女の一人旅はやめなさいなど‥‥‥‥‥ロン爺ばりの説教をくらった。
(ちょ〜〜〜〜耳いてええ)
アイリ「凄腕の冒険家」モード、完。
 それでも、夕食の残りをご馳走になり「よく食べる子ね〜〜」、一緒にテントにも泊めてもらって、翌朝にはその日の分の食料まで分けてもらうという厚遇っぷり。説教した隊員いわく「あまりにも度が過ぎていたので放っておけなかった」とのこと。
 キャラバン隊はビガプールからやってきてシュトラセラトに向かう途中だという。
「セブローって人かどうか知らないけど、西リットリン半島で薬を買っていった人がいたわ。街道近くにテントを立てていたの」
その情報を頼りに、アイリは再びフォーリンロードを西へと目指した。

 

 

 

 西リットリン半島。
 「街道沿いのテント」という情報をもとに、アイリはセブローと巡り会えた。
 途中、なんかの村かと思って立ち寄ったら黒魔術師の寄合で、火の玉の魔法を浴びせられたりして、散々な目に遭って逃げ出してきたりしたのは内緒の話。
「いかにも私はセブローだが。お前さんは何だ?」
毎度毎度、何かにつけて不審がられるアイリ。とりあえずアイリはアトボンの頼みでアリエルのドレスを注文にやってきたのだと伝えた。
「フ〜〜ム。なんだか『ア』で始まる名前ばっかだな」
(ほっといてっ!)
「まあ、ドレス作るのは別にいいんだが‥‥‥‥‥」
「?」
「代わり、と言っちゃなんなんだが。俺の頼みを一つ、聞いてくれないか?」
 セブローは不思議な話をした。
 何週間か前のこと。シュトラセラトのセブローの店に洋服の注文にやってきた女性がいた。とくに気にもせず、なんとなくいつも通り普通に手続きして、そして女性は帰っていったのだが、よく考えると、彼女の表情は言葉では表現できないほど暗く沈んでいた。気になって、声をかけようと店の外に出たのだが、その時はもう街の中に消えてしまっていた。以来、そのことがずっと気になって、セブローは満足に夜も眠れないという。
「彼女の様子、調べてきてくれないか? そしたら俺も、最善を尽くして君のドレス、仕立てるから」
その女性はここからフォーリンロードを少し戻ったエルン山の麓に住んでいるという。そこの近くにある小さな沼地の洞窟によく通っているのだそうだ。
 用件に向かう前に。
「あの‥‥‥じつはルイズさんから‥‥‥‥その‥‥‥」
魔法のカーペットの件を話した。
「なに?!」
怒られる! と思った。そんな便利なシロモノ、人に貸したくはないとアイリも思う。
「ってことは。あんにゃろう!! 俺に歩いて帰れってか!」
(やっぱ、だめかなあ〜〜〜〜〜)
「ったく、しゃーねえなーー」
テントの中からごそごそと。
「ほらよ」
大分嫌そうな気配はびんびん感じたが、セブローはカーペットを貸してくれた。
「あ‥ありがと‥‥」
「おう、気をつけてな!」

 

 ややあって。帰る当てを失ったセブローが、気を揉みながらテントの中の荷を整理していたところ。
「ねえ! セブローさん」
さっきの少女だ。まだいたのか‥‥‥。
「この絨毯、どうやって使うの?」
「‥‥‥‥‥」

 

 

 

 魔法のカーペット。
 その昔、ゴーファという大魔術師が愛用していたもので、ゴーファの「感応魔法」が施されたカーペット。非常に薄い生地でできていて、魔力を感知すると「風」の元素を増幅、それによって浮力を生じ、宙に浮かぶ。魔力のちょっとしたさじ加減で前進と停止をコントロールして、乗用とする。名前だけ聞くと非常に便利で夢のある一品のように思えるが、扱うにはそれ相応の魔力とコツが必要となっている。慣れない者が乗ると、急発進や急停止して振り落とされたり、供給する魔力の加減がわからず無駄に疲弊し、それほど長時間の移動には耐えられなかったりする。
 このカーペットの原動となっている「感応魔法」というのは、少し変わった魔法である。「感応魔法」の基本的な定義は、対象物が特定の状況下に置かれることで発動する魔法のこと。体系としては「付加魔法」とともに「間接魔法」に分けられる。しかし魔法の中でもかなり特殊なもので、実際のところ、明確に体系分けできない様々な種類の魔法が、全てこれに区分されているという。小さくは、古都のロングッシュが小鳥に施した魔法、大きなものとして、このゴーファのカーペットや、数十年前にいたある大賢者は物質を爆弾に変える魔法が使えたという。もし、童話なんかにあるように、どこかの国の王子様が魔法をかけられてカエルの姿になってしまったとしたら、その魔法は感応魔法である。また、普通、魔法は短時間(長くても数分)で効果の消えるものが殆どである。しかし感応魔法の中には、一度発動すると効果の消えないものや何十年にも渡って効果の持続するものがある。このカーペットもそのひとつだが、よくある使われ方として、鎧や武器に施術してその強度を高める(衝撃時に元素によって錬度が高められる)、というのが一般的である。ちなみに、その手の武具は高価に取引されたりするので、そういった感応魔法の使い手は一生食いっぱぐれることはないとまで言われている。

 

 

「おっ‥‥」
セブローに言われたとおりすると、簡単な魔力でカーペットは浮遊した。
「そのまま乗れよ。送るの止めると落ちるからな」
恐る恐る、飛び乗る。ドサッ、ゴロン。
(すげえええ、浮かんでる〜〜〜)
「もっと高く浮かびたければ、もっと元素を送る」
(ふむふむ)
高いと、もし落ちたとき怖いから、初めは低くしとこう‥‥。
「で、進むときは前に元素を送る感じ」
(お、進んだ)
緊張しいしい魔力を送る。
「止まりたいときは、ゆっくり、その逆」
(こうかな‥‥?)
止まる方が難しいかも。
「フム!」
一通りの操作はこの程度らしい。
「なかなか筋がいいじゃないか」
(そ〜〜〜かしらっ!)
得意気になる。確かに、学校でも魔法学の実技テストの成績は優秀だった。
「じゃ、行ってくるね〜〜〜」
「たのんだぞ〜」

 

 

 

 再び、南フォーリンロード、テレット・トンネル出口付近。
 昨日の隊商さんたち、まだいた!
「お〜〜〜〜〜〜〜い」
多少片付けが済まされて、今朝よりキャンプが寂しげに見える。よく世話をしてくれた若い男女が、作業の手を止めて応じてくれた。
「なんだ、今日は随分いいーの、乗ってるじゃね〜か!」
当然、カーペットに言及される。
「でっしょ〜! 昨日はありがとね〜」
お礼を言いにきたのだが、半分はこいつを見せびらかしにやってきたところがある。
「探してた人には逢えたのね」
「うん。これからエルン山ってとこに行くところ」
「気をつけてな」
「うん」
女性の方が、またいらっしゃいな、と言った。
「じゃ〜ね〜〜〜〜」
そのままアイリは飛んで行ってしまった。
「なんか‥‥」
手を振るのを止めて、女性が呟いた。作業に戻ろうとした男が振り返る。
「ん?」
「不思議と‥‥おもしろいコだったわね〜〜」

 

 

 

 南フォーリンロード、エルン山南部地域。
 なんといっても、カーペットの速さと言ったら! 歩いてきた道のりがぐんぐん巻き戻されていく。
「はっはっは〜〜〜圧倒的じゃないか」
それだけに、昨日の苦労が思いやられる。
(うう〜〜〜〜あんなにしんどい思いして歩いて来たのに)
あっという間に挽回された。
 カーペットの移動はかなり快適だった。セブローの言ってた女性を探すのに、もし徒歩だったら、あちこち行ったり来たりしなければならなかったかもしれないが、それがカーペットなら瞬く間に行けてしまう。「慣れないと結構疲れる」とか言っていたが、そんなことはなかった。但し、問題は別のところにあった。
(あれ‥‥‥‥でも、女性っつったって、誰だっけ? 名前なんて言うんだっけ‥‥‥‥???)
聞き忘れていた。誰を探せばいいのかもわからなかった。
 そうこうしてる中に、目まぐるしく移り変わる風景の中から、一人の女性を発見した。
(あ、あの人に聞いてみよう! ‥‥‥ってか、あの人がその人かな??)
とりあえず行ってみよう。
「すいません!!」
「はい?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥?」
不思議な「間」がある。
 なんて聞いていいかわからない。「あなたセブローさんが言っていた女性ですよね?」って言ってわかるわけないし。「ここらへんに困っている女性がいるらしいんだけど、知りませんか?」まさか会っていきなり「あなたいま何か困ってますか」って聞くわけなんていかない。
「あ‥‥あの、その‥‥‥‥」
「はい」
「あたし‥‥‥通りすがりの者なんですが‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「もしかして‥‥‥」
「‥‥?」
「何か悩み事ありませんか?」
考えた挙句‥‥‥‥‥直球だった。
 女性は不思議そうな眼でこっちを見ている。
「いえ‥‥‥別に、特にありませんけど‥‥‥?」
何を言ってるんだろうこの子、とでも言いたげな、常識的なリアクション痛い。
「あはは。そ‥そうですよね」
(は、はづい‥‥‥)
頭掻き掻き苦笑い。「他、当たってきますね」そう言って、そのままカーペットごと引き換えして行こうとする。すると。
「なんで‥‥‥‥‥わかったのですか‥‥‥」
「へ?」
思わず、振り返った。カーペットは変わらず中空をたゆたっている。
「なんで、わかったんですか‥‥‥‥‥‥私に‥‥‥助けが、必要だってこと‥‥‥‥‥‥」
彼女の名前はエドと言った。瞳の光は憂えを湛え、肩が小さく震えていた。アイリの思いがけない一言に、不意を衝かれて心の盾が打ち砕かれたのか、ずっと張り詰めていたものが弛緩されたようだった。エドは心の内側から押し絞るように、言葉を紡いだ。

 

 

 

 ギルバートという、幼馴染みがいた。
 互いに両親が見知った間柄で、幼い頃に出会い、よく遊ぶ仲となった。
 17才の時。告白されて、二人は愛し合う関係になった。
 ギルバートは正式な騎士ではなかったので、お給金も少なく、二人の生活は慎ましやかなものだった。
 ギルバートは優れた剣の腕を持っていて、よく困っている人たちを助けてあげたりしていた。危ないことでも嫌がらず、報酬を受け取ったりもしなかったから、人々から本当によく好かれていた。
 そんな善良な人だったから、一緒にいられて、エドは幸せだった。貧しくとも、二人はささやかで幸福な日々を送っていた。

 

 しかし、ギルバートを快く思わない人たちがいました。悪人たちでした。
 自分たちの仕事を邪魔された悪人たちは、ギルバートへの復讐を目論んでいたのです。
 悪人たちは降神術師を雇い、奇妙な薬をギルバートに振りまきました。
 すると、翼が生えて、頭に角ができ、ギルバートは怪物の姿になってしまいました。
 それでも最初、心は全く変わらないギルバートのままでした。だけど、やがて少しずつ凶暴になっていって‥‥‥‥‥優しいギルバートはそのことに堪えられなかったのです。
 ある日、とうとうギルバートは洞窟の奥深くに入って行って、私の前から姿を消してしまいました。
 私はギルバートの後を追いました。けれど、洞窟の中には強力な化け物がたくさんいて、私には入って行くことができなかったのです。
「それじゃ‥‥ギルバートさんは、もう完全に‥‥‥‥」
「いいえ! 私はギルバートが化け物の姿になったって構わない、と思って、危険だけど、洞窟の中に入って行ったことがあるんです。‥‥‥でも、中はやっぱり危険で、私は化け物たちに囲まれて気を失ってしまってしまいました」
(あぶないよ‥‥‥)
「それで、気づいたら‥‥‥‥」
エドは息を継いだ。
「翼の生えた怪物が、他の怪物たちと争って、私を守っていたんです!」
(ギルバートさん‥‥‥‥)
「体は化け物みたいになってしまったけれど、心は昔の、ギルバートのままなんです!」
そこまで話して、エドはようやく心の昂りを落ち着かせた。思いの丈をちゃんと伝えようと、話してる内に、口が心に追いつかなくなっていたから。
「もとに戻る方法はないの‥‥?」
「私はギルバートを元に戻す方法を、半年かけて探しました。そして呪法を無効化できる魔法薬の調合師がいるという噂を聞きつけ、魔法都市スマグまで行ってきたのです」
魔法都市スマグ。古都より北東にある街で、ウィザードたちのメッカ。遙か昔から多くの高名な魔術師を輩出し、現代でも様々な魔法学研究の名門である。
「調合に必要な材料と、方法までも、メモに書いてもらったんですけど、あと一つだけ、手に入れられない材料があるんです」
なんでも材料を手に入れるために古都にも行ってきたのだそうだ。でも古都にはたくさんの冒険家がいるから、お金さえ払えれば、彼等に頼めば比較的早く材料は集められたのだという。
「最後の材料は『浄化の果実』といって、ここからずっと西に行ったところにある森の、どこかの木に生っている実なんです」
広々とした森の中、たったひとつの果実を探す‥‥‥‥‥たしかにそれは並大抵の作業じゃない気がする。森にはモンスターも出るだろうし、おまけにシュトラセラトには古都のような冒険家たちがいない。一応そういった「何でも屋」的な仕事を請け負うところもあるようだが、古都のようにはいかないらしい。古都はいわば冒険家たちのメッカである。質も量も他都市の比ではないのだろう。
(でも、あたしなら‥‥‥‥)
ふと思った。
 アイリももう冒険家の端くれ。多少のモンスターなら相手になるし、それに今はこのカーペットがある。このカーペットを使って探せば、広い森といえども難なく探せ‥‥‥‥‥は言い過ぎだとしても、徒歩で探すよりずっと効率がいい(この時、アイリの脳裏にポラックの指輪探しが思い出された)。何より今この場にいて、この話を知り、カーペットまで持っている、私をおいてこの任務の適任者が、他にいるはずがない。
「あたしが取ってくる!」
「でも‥‥‥」
エドは躊躇った。捜索は大変だし、危険も伴う。初対面の人にお願いしていいことなんかじゃない、というような話をした。
 でもアイリは慣れっこだった。初めから予想できていた。こうゆう女性はたいていこうゆう遠慮がちなことを言ってくる、と。まどろっこしい。そんな遠慮はいらないんだ。あたしが取ってきてあげるんだ!
「モンスターなんか、あたしの魔法でちょちょいのちょいだからね!」
「ありがとうアイリさん」
エドは笑って応えた。切なさを胸に溜めた、疲れた笑顔だった。
「でも森には‥‥‥‥‥モンスターというか、虫のお化けが出るんですよ」
「虫のお化け?」
「ええ。羽虫みたいのがいっぱい集まって、ざわざわざわ〜〜〜って」
(え‥‥‥だめじゃねそれ‥‥‥‥‥魔法効かなくね‥‥‥‥)
「特に『浄化の果実』が生るところには、虫たちがたくさん集まってきて、遠くからでもわかるくらいなんですって」
(どんな光景だよ‥‥‥)
大量の虫に襲ってきて、刺されたり、噛まれたり、服の中まで入り込んできたり‥‥‥‥。想像すると背筋がぞ〜っとした。
「き、気休めかもしれないけど、ウチに虫除けの塗り薬あるから、それ持ってきますね」
「は‥はは‥‥ありがと」
その時、エドは淋しそうな眼をして、言った。
「でも‥‥‥‥‥‥やっぱり、いいんです。アイリさん」
「え?」
「実は、もしこの薬が出来ても、ギルバートは元に戻らないかもしれないんです」
「??」
「調合師の方に言われたんです。人間の姿まで変える魔法は『感応魔法』といって、難しい魔法らしいんです。それも、薬品を使った呪法ともなると、薬品自体、禁じられた材料配合が為されている『禁呪』の類かもしれないと。そうゆうのは施術者本人にしか解けないか、あるいは、本人にすら解けないか‥‥‥。調合師の方、『私の薬では治らないかも』って‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「だけど私、無理言ってお願いしたんです。わざわざ遠くまで来て、何もできずに帰るなんて耐えられなくって。せめて、なんでもいいからギルバートのためにできないかって‥‥‥‥」
なるほど‥‥‥‥。それじゃあ確かに、治る見込みはないのかもしれない‥‥‥。
「だからいいんです。こんなことのために、あなたを危険な目に遭わせるわけにはいけません。治るかどうかもわからない薬品のために‥‥‥」
「そんなのわからないじゃない!! 治るんかもしれないんでしょ? やってみようよ!」
頭の中にあった言葉が、そのまま出た。
「アイリさん‥‥‥‥」
悪い可能性なんて構ってられない。浄化の果実めざして、アイリはカーペットをはためかせた。

 

 

 

 森の中に、不自然にそこだけ靄のかかった木があった。
(?! ‥‥靄じゃない‥‥‥‥)
 よく見れば、羽虫たちの集まり。すごい数だ。おそらく、あの中心にあるのが浄化の果実に違いない。自らのテリトリーを荒らす侵入者の姿を認めた虫たちは、その羽ばたきを威嚇めいた音色に変えて襲いかかってきた。
(たかが虫フゼイが、人間様の行く手をはばみやがって!)
 目に物見せてやる!
 行くぜっ!
 元素を廻らして、アイリは魔法のカーペットを駆った。

 

 ぎょわああああああああああああ
 びえええええええええええええ
 わわっ、口ん中にはいる〜〜〜〜〜〜〜
 うえええええ、ぺっぺっぺっぺ〜〜〜〜
 にぎゃあああああああああああ

 

 ‥‥‥‥‥それは、地獄のような光景だったという‥‥‥‥‥‥‥。

 

 

 

 死闘を乗り越えて、アイリは浄化の果実を手に入れた。
「はい、これ、果実‥‥‥」
「あ、あ、ありがとう‥‥‥‥」
エドはおそるおそる赤い果実をアイリの手から受け取る。
「あ、あの〜〜〜」
「ふぁにか(なにか)?」
「だ、だいじょうぶ‥‥‥‥‥‥じゃ‥‥‥ない、ですよね?」
「え、ええ‥‥‥ほっても(とっても)」
アナフィラキシーチックな顔で返事する。
「だ、だから言ったじゃない‥‥‥一応虫除け塗った方がいいって‥‥‥‥」
ああそんなこと言ってったけな。でもなんとなく、会話の流れで、飛び出してきちゃったんだよな。
「じゃ‥‥‥虫刺されの塗り薬あるから、ウチにいこ?」
「ふぁい」
「でもその薬‥‥‥」
「?」
「すっごい効き目あるんだけど‥‥‥‥すっごく沁みるんだけど、いい?」
「すみばぜん、ほねがいじます」
 エドの家に招かれた。そして虫刺されに「よく効く」薬を塗ってもらった。
「い〜い? ちょっとだけ、ちょ〜〜〜っとだけ、沁みるからね」

 

 

 

 ‥‥‥‥‥それは、地獄のような悲鳴だったという‥‥‥‥‥‥‥。

 

 

 

 気を取り直して。
 アイリの取ってきた浄化の果実。これで材料は調った。
「じゃあ私はこれで薬を調合するわ」
言いながらエドは、いくつかの材料を薬研に投入している。
 その様子を見ながらアイリは思う。初めて会った時に比べて、エドさん随分元気になったようだ。よかったよかった。
「ありがとうね。もし全部終わったら、手紙書くわ。ギルバートが元に、戻っても、戻らなくても」
「戻るに決まってんでしょ!」
「‥‥‥ええ、そうね! きっと戻るわね!」
そう言って、二人は笑顔を交わした。
 丹念に薬を擂り卸しているエドの、邪魔にならないよう別れを告げ、アイリはセブローの元に向かった。

 

 

 

「そうか、そんなことがあったのか。それであの人は、あんな暗い顔してたんだな」
リットリンに戻ってセブローに事の顛末を報告。どこかへ移動でもするのか、テントは畳まれている。
「で、その薬どうなった? 旦那さん、元に戻れたのかい?」
「まだ煎じ中。出来たら、ギルバートに振りかけて‥‥‥結果は手紙で教えてくれるって」
「煎じる」は本来、薬草を煮出すの意だが、アイリ的には薬研でごろごろ車輪を転がす作業は「煎じる」だった。
「そっか。うまくいくといいな! ‥‥‥って、あれ? どうやって振りかけるんだ? 洞窟の中は、モンスターでいっぱいじゃなかったっけ?」
「あ‥‥」
確かに‥‥‥。もしかすると、下手すれば、今頃エドさん‥‥‥モンスターたちの手にかかって‥‥!
(やばいじゃん!!)
「行ってくる!」
「おう! 急げよ」
慌ててカーペットを引き返した。
「待てアイリ! オレはもうここ、引き払うからな。用があったらシュトラセラトのウチの店まで来てくれ!」
「うんわかった!」

 

 

 

 カーペットは本当に便利だった。今日一日だけで、どれだけの距離を移動できたことだろう。
 急いで飛ばしてやってくると、洞窟の前にいるエドを発見した。おそらくギルバートが入っていったと思われる、洞窟。
「エドさ〜〜〜〜〜〜ん!」
「‥‥アイリさん!」
エドは救いの神でも崇めるように、魔法カーペットに乗った少女を見遣った。呪いを解く魔法薬は完成したものの、よく考えたら、洞窟の中は怪物でいっぱいだから、どうやってギルバートのところまで行ったらいいのか、途方に暮れていたところだった。
(ああ‥‥‥とにかく、無事でよかった)
アイリやセブローからしてみれば、心配で慌てて引き返してこなければならない事態だったが、エドからしてみれば当然、モンスターだらけの洞窟に入っていくことなどできなかった。薬の材料がそろった喜びで、エド自身ですらそのことを忘れていたのだから、アイリがそこまで気の回らなかったのも仕方のないことだった。
「‥‥‥だったら一緒に、行こうか」
まだまだ未熟でひよっこみたいなものだが、これこそが本業である。色々ありはしたが、いよいよアイリの腕の見せ所。「冒険家アイリ」、出番である。

 

 

 

 エルン山南部地下洞窟。
 窟内はモンスターたちの巣窟。様々な種類の怪物どもがウヨウヨしていた。
 棲息しているのは主に食人鬼のオーガ、その種の中でも特に好戦的なオーガソルジャー。不潔で粗暴、棍棒などの原始的な得物を手にしている。単純な力比べにおいて、人類が決して超えられない種族である。その巨大で厳つい風貌ばかりに目を取られていると、足元を掬われる。足元にはヒュージマゴットという巨大な蛆虫が、通常のそれより極端に発達した口鉤を剥き出しにして、動くもの皆、捕食しようと待ち構えている。他に、クラブシェルというカニの化け物がいる。迂闊にもそのテリトリーに踏み込もうものならば、長い鋸状の鋏脚によって、軟らかい人間のすねくらいならば簡単に切断されてしまうであろう。
 ところどころ、崖の岩場の隙間から漏れる外の明かりを頼りに、二人は洞窟を突き進んだ。
 獲物を発見して、襲い掛かってくるモンスター達。
「ちくしょっ! あたしの弓をくらえ!!!」
矢が刺さってもびくともしない、鋼のような胸板。ずんずん押し迫ってくる。
「あわわわわ‥‥アイリさん」
「やばいっ! にげよ!!」
36計、走為上。走って逃げた。
 逃げる途中で、「グニュ」足元に柔らかな感触。
「ああ〜〜! いま、なんか、変なの踏んだ!!」
「ぇえええ?!」
蛆虫の化け物。産卵地だったのか、辺り一面、埋め尽くしている。
「こんにゃろ〜〜〜〜〜!」
蹴飛ばして進んだ。
 バサバサバサバサッ‥‥‥
得体の知れない大量の飛行物体とすれ違った。
「ギャアアアアアア!」
蝙蝠の群れ。
 ‥‥‥散々な目に遭いながら、二人は奥へと進んでいった。

 

 

 ハァ‥‥ハァ‥‥ハァ‥‥‥‥
 息も切れ切れになって走り続けた。アイリでさえしんどい道程、普通の人には堪えるかもしれない。
「エドさん‥‥大丈夫?」
走りながら、その身を案じた。
「ええ‥‥なんとか」
呼吸は苦しかったし、さっきから寿命の縮まるような出来事ばかり。こんなこと、とても普段の日常じゃ、有り得ない。はらはらして心の臓の動機は激しかったが、エドはそう答えた。そして、それとは全然別のことを、エドは考えていた。
 ‥‥‥‥‥スマグの調合師が言うように、この魔法の薬を使っても、やっぱり、ギルバートは元の姿に戻らないのかもしれない‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
 ‥‥‥‥‥けど。戻るかもしれない! 夢を見てもいいのかもしれない。結果は運を天に任せるしかないけど‥‥‥‥‥少なくとも私は今、その夢に向かって走っている。‥‥‥‥楽しかった日々‥‥‥‥‥‥また二人で、分かち合えたなら‥‥‥‥‥。
(アイリさん‥‥‥‥)
 この小さな協力者のおかげで、一人ではとても成し得なかったことが出来てしまった。感謝の気持ち、いっぱいだった。その背中に導かれながら、運命は今、新しい局面を迎えようとしていた。

 

 

 

 洞窟、最深部―――――。
 それまで通路状だった洞窟が、そこは小広く開けた空間になっていた。
 不思議なところだった。
 考えてみれば、さっきまで犇めき合うように生息していたモンスターが、ここには一切見受けられない。そのせいか、辺りは水を打ったように森と静まり、窟内の冷気に肌寒さを感じさせられた。改めてこの地下洞窟の気温が、地上のそれより低くなっていることに気づかされた。
(‥‥‥なにか‥‥‥‥いる‥‥‥‥‥‥‥)
 そう―――――。
 この冴え渡った空気はまるで、何者かの、精神の檻に侵入したかのよう。冷たく研ぎ澄まされた意識は、檻の中の出来事全てを把握していて、じきにその主は我々という、侵入者の存在に気づくだろう‥‥‥。アイリは肌で、他のモンスターがいない理由を克明に感じ取っていた。檻は主が、身を守るために張ったものか、エサを確保するために張ったものか、分からない。だがどちらにしても、そこに入り込んだ者は、その凶悪な処置と対峙する運命を免れ得ないのである。
(くる‥‥‥)
 バッサ‥‥バッサ‥‥バッサ‥‥‥‥。
 殆ど無意識下にアイリは弓構えし、エドはその背に半ば身を隠した。巨大な翼の羽撃き音とともに、一柱の悪魔は眼前に降り立った。
 両翼は広げた状態で3mを超える大きさがある。羽毛でなく飛膜の翼。コウモリのような伸縮性のある膜でできている。それに比べて体は極端に小さく、痩せこけて貧相ですらあった。鉤爪となっている後肢も脆弱で、二足歩行を主たる移動手段とした生態でないことがわかる。胸部だけは例外で、体部の中でもここだけ筋肉が漲り、頑強になっている。主に翼(第一前肢)を稼働させるために発達したこの部分は、全体重を占める割合の多さがはっきりと見て取れた。胸部からは他に、人間で言う腕のようなものも生え(第二前肢)、華奢だが芯の強そうなその腕の先には、人間と同じ5本の指があるが、4指だけかなり長い。頭部は細く縦長で、額には太く短いサイの角がある。嘴状の長く強靭な顎と、噛み合わせから突き出た鋭い歯は、遥か古代に滅亡した嘴口竜亜目のようで、残忍性を連想させられた。
 アイリとエドの10m程の距離で対峙したそれは、静かに、対象を観照し、ややあってから、耳を劈くような甲高い奇声を発して、それまで静謐だった窟内の空気を鳴動させた。

 

 ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!

 

 衝撃波のような雄叫び! 鼓膜がキンとした。
 余りの声量に、アイリは思わず番えた矢を取りこぼしそうになった。
 この怪鳥を思わせる悪魔から発せられる元素力の強さに、アイリもさすがに怯まざるを得なかった。
 果たして、この悪魔をどうにかして、無事、ギルバートの元へ、辿り着けるかどうか‥‥‥。
 そのことに、アイリが頭を専一に絞っている、その脇で。エドが呟いた。
「ギルバート‥‥‥」
(えっ‥‥)
耳を、疑った。
 ‥‥‥この怪鳥が‥‥‥‥?
 ‥‥‥これが‥‥‥‥‥元々は、人間の姿をしていたのだろうか‥‥‥‥。
 奇怪な翼や角、恐竜のような顎。肌の色まで土気色で、違ってしまっている。
 それに、ギルバートは屈強な剣士だと聞いていた。だが目の前にいる悪魔は、どう考えても子供か、痩せこけた老人のような小柄な体付きである。
 悪魔は、その場に佇みながら、緩やかな羽撃きを繰り返している。
(‥‥‥‥‥‥ありえない‥‥!!)
 どうしようもない生理的な嫌悪感が、押しとどめることができない。
(なんてことを‥‥したんだ!!)
 この世には‥‥‥‥自然界には、有り得ない法則によって齎された変質。
 歪められて。
 限りない邪悪。禍々しさ。
 その存在‥‥‥方法‥‥‥‥‥‥‥そんなことをやったヤツラ!
 ゆるせない。

 

 

 ふと。後背の動揺を、気取った。
 エドが悪魔に魔法薬を振りかけようと‥‥‥‥。
「エドさんっ!」
 あたし、たしか「ダメもと」だ、って言った。やってみなくちゃわからない、って。
 でも‥‥‥‥‥‥同じじゃなかった‥‥‥‥‥‥‥‥木を‥‥‥‥灰に変える力と、灰を木に戻す力は。
 やらなくても結果なんて‥‥‥‥。
「ギル‥‥‥」
 エドは悪魔に近づいて行った‥‥‥‥‥。
 そして、栓を抜いて、力いっぱい、魔法薬の瓶を振るった。
 透き通った紫色の液体が、翼の悪魔に降りかかった。

 

 

 ‥‥‥‥‥

 

 ‥‥‥‥‥‥‥‥

 

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 

 悪魔は翼の羽撃きを、変わらないリズムで打ち鳴らしている。

 

 いや。

 

 気配が‥‥‥

 

 変わった‥‥‥?

 

 

「エドォーーー!」
咄嗟に叫んだ!
 悪魔は長い4指の爪で、エドに薙ぎ掛かった。
 アイリに声に反応したエドは身を屈めてかろうじてその一撃を回避した。
 エドは声も上げられなかった。
 上げられずに、そのままアイリの方に向かって、走った。
(くっ‥‥)
 エドは真っ直ぐこちらに戻ってくる。悪魔は飛翔しそれを真後ろから追尾してくる。
 縺れそうな足取り。今にも追いつかれそうな‥‥。
 二つの影は重なり、アイリはエドに向かって、矢を構えなければならない体勢だった。
 逃げることに必死で、エドはアイリの弓に気づかない!
(お願い‥‥気づいて‥‥‥)
 エドは走りながら、アイリに近づくにつれ、衝突らないために、弓を構えるアイリの体の正面側に走路をずらした。
 そこに、一瞬の隙が見えた。
「ビュッ!」
 アイリの射的。
 一条の矢がエドの右肩斜め上をすり抜け、悪魔の右翼に刺さった。
「ギエッッ!」
悪魔は小さな呻き声を上げ、エドへの追尾が刹那、緩んだ。代わりにアイリという外敵を認識する、爬虫類のような目。
(効いている‥‥‥‥? 効いていない? わからない!)
「エドさんっ! 逃げようっっ!」
一散に、二人は元来た道を駆け戻った。

 

 

 再び地上に戻ると、そこには不思議なほど穏やかな光景が広がっていた。風が吹き、視界は冴え渡って、どこまでも続く平原を映し出していた。その穏やかさが、却って心をざわめかせた。
「ごめんなさい、アイリさん‥‥‥‥‥‥あんなに助けてくれたのに」
「‥‥‥‥‥」
謝りたいのは自分の方だった。無責任なことばかり言って‥‥‥‥‥結局、なんにもなりやしなかった。
「彼はもう‥‥‥‥心の中まで化け物になってしまったんです。私の顔も声も‥‥‥もう聞き分けることができない‥‥‥」
せっかく苦労して手に入れた魔法薬も‥‥‥‥‥‥。
「これからギルは、怪物として生きていくしかないんですね‥‥‥‥。時々、洞窟に入り込んだ人たちを傷つけたりしながら‥‥‥‥‥‥あんなに人助けをするのが大好きだった彼が‥‥‥」
 ――――――ギルバートさん。
 アイリの中にかすかに揺らめく炎のような想いがある。
 このまま‥‥‥放っておいてはいけない‥‥‥‥‥‥ギルバートもエドさんも。
 強くて優しかったというギルバートさん。
 人助けが大好きだったギルバートさん。
 彼に‥‥彼のために! ‥‥‥‥‥‥‥‥‥安らぎを‥‥‥与えてあげなければ‥‥‥‥。
 強く、勇気を持って。アイリは意志を伝えた。
「エドさん‥‥‥あたし‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ああ!!」
それだけで。伝わった。
「お願いします! お願いします‥‥‥アイリさん‥‥!」
洩れる嗚咽に口を押さえ、エドは遂にその場に泣き崩れた。目に涙を、いっぱい浮かべながら。
 アイリは身を屈めて、そっとエドを抱きしめた。
 そしてすぐに翻して、歩み出した。
(ギルバートさん‥‥‥‥‥‥待ってて)
 一陣の風が慟哭を攫っていった。
 アイリは一人、再び洞窟の中へと入っていった。

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