第5章 赤き運命の糸

 クレイン家の家訓に「食事と睡眠を大切にする」というものがある。アイリの父アルフレッドに因るものだが、人は食事以外にエネルギーを摂取する術を持たないし、睡眠によって体を休めなければ活動できなくなる。なので、この二つを疎かにすることは人間としての活力を疎かにすることであり、活力を疎かにするということは、自らが持ち得る可能性を疎かにするということに他ならない――――という。人生には様々な困難が待ち受けているだろうが、まずは食事や睡眠といった基本的なことを正しくし、万全な状態を以て物事に臨むのがよい――――と言うのである。兎にも角にも、そのような家訓のため「アイリ〜! 人は人生の3分の1は寝ているんだ。だから、寝具はいいのを選びなさい!!」といって、中流階級には似つかないフカフカのベッドを買ってくれたり、食事は栄養バランスを十分に考慮し、達人級の腕前をもって、毎日豊富なレパートリーが食卓に並べられた。ずっとそれが当たり前のことだったから、いざ慣れない枕や、気持ち硬めの布団で一晩明かしたり、面倒だからとフロントに頼んどいた朝食の味付けが思いのほか質素だったりすると、早くも我が家が恋しくなってくるものである。しかし、そこでよぎるのは「ほれ見たことか〜〜」と言わんばかりに、してやったり顔でほくそ笑む父の顔。「絶対に、もどってなんかやるものか!」
 体中のあちこちから、昨日の疲労が悲鳴を上げている。アイリはそれを単純な筋肉痛だと思ったが、実際は実戦レベルで使用した激しい魔力の消耗であることに、この時点では気づいていない。勿論彼女が、今後このような魔法の使い方をしていけば、その耐性も自然と身につけられていくものではあるが。
 いずれにしても、今日もブルンネンシュティグの朝はよく晴れて、家出少女の二日目が始まった。
 今日は朝10時に国会議事堂でアポイントメントがある。9時に宿屋のチェックアウトで追い出され、ぶらぶら歩けば丁度10時前には国会に着く。私はスケジューリングの天才だな、なんて思いつつ行くが、9時のチェックアウトも10時の待ち合わせも、他者によって定められた予定に過ぎない。このお気楽な性格は、本人曰く「長所」である。

 

 

 国会議事堂。
 西部商店街から中央広場を経て、東に歩いてすぐのところにある、ブルンネンシュティグでは珍しい石造りの重厚感溢れる古典的神殿建築の建物である。バヘル河流域に豊富な伐木地を持つブルンネンシュティグでは、上流で集めた木材が水運で運ばれてくるので、建築にはこれを利用するのが一般的である。そのため、古都の建築物の殆どは木造式となっている。これに対して石造建築は、その格式高さや様式美においては勝るが、運搬に適さず、建造に必要な労力も飛躍的となる。そのため建造物に"特別な"意味を持たせる際に石造式が用いられることがあり、国や宗教関連の建築物にこの様式が見られたりする。100年前までは大貴族らがその権威を誇示するために、敢えて石造建築の住居を構えてその華美壮麗さを競い合うという風習があった。が、そういった貴族は先の事変で淘汰され、石造りの邸宅も戦火に崩れ落ちた。その後、荒廃したブルンネンシュティグが都市機能を再生するに当たり、取り壊された大貴族の邸宅跡に木造の民家が立ち並ぶこととなったのである。いま国体改変後の、共和制の象徴たる建物に、そのような石造建築が用いられていることは「悪しき習慣の継承ではないか」という穿った見方も少なからずある。しかし、その重厚で風雅な造り、冷厳な佇まい、建物の各所に適度に配置された彫刻物などの質実剛健さ、それらは立ち入る者に自ずから厳粛な心持ちを喚び起こさせるものがある。こんなことでもなければ、生涯全く無縁であったろう施設を目の前にし、アイリの心にもひしひしと迫る想いがある。もっとも彼女の場合は、建物全体から発せられる威圧的な空気より、過去の苦々しい思い出からくる心理的圧迫感の方が強かったかもしれないが。 
 中に入ると温かみのある木造建築と違って、どことなく冷ややかな空気が流れ込んでくるようである。石柱や壁が幾何学的模様を織り成して回廊は無駄に長く、道を間違えるとどうにも大分長い距離を引き返さなければならないようだった。
(めんどくせえええー)
 ところで、このスケジューリングの天才は「朝10時に国会議事堂」というところまではその明晰なる頭脳にインプットされていた。しかし議事堂内は広く、不親切に案内図の少ないこともあって、議事堂内にいながら目的の事務室に辿り着けないという、想定外のトラブルに見舞われていた。どうにもこのままでは、予定の時間に間に合いそうにない。
「おっちゃん! ブロームの事務室ってわかる?」
(お、おっちゃん……。ブ、ブ、ブローム…………)
全く悪いのは自分の方なのだが、目的地に辿り着けないもどかしさと約束の時間に間に合わないイライラさから尋ねた言葉遣いが乱暴になって、通りすがった紳士風の男はたじろいだ。
「……わかりますよ。付いて来なさい」

 

 

「こちらです」
紳士風の男は白髪で背が高く、背筋が真っ直ぐピンと張っていて姿勢が良かった。その背中に付いて行くと一つの部屋の前に辿り着いた。プレートに「国会議員ブロームの事務室」とある。入り口で女性に声をかけられ、昨日のハトの手紙を渡すと、中に通された。事務室内には壁一面に大きな本棚が並んでいた。中身は法律や政経関連の書物で埋め尽くされている。部屋には5、6人の男の姿があった。
 最初に目を引いたのは、全身を仰々しい鉄の甲冑で包んだ者だった。ジーンズ姿のアイリが言うのもなんだが、この建物に相応しい出で立ちとは思われない。しかし他の者たちもそれなりに武装を整えており、革鎧や短刀、腰に帯びた長い刀剣など、各々の得物が目についた。おそらく――――彼等は冒険家で、この集まりの後はいずこかへ冒険に出るのだろう。それら冒険家たちを、アイリは自分とは全く別の世界の住人のように見つめていた。ここに呼ばれた時点で、アイリも彼等と同等の扱いには違いない。しかし彼女には学校があったし、たしかに昨日は冒険家みたいな真似ごとをしたが、それでもまだ若い女の身で、自分が冒険家になれるなどとは思っていない。ああゆうのは武芸でも習ってる奴か、全身筋肉の塊みたいな奴がなるもんだ、と思っている。誰もが、初めからそうであったわけではないにも関わらず。
 ふと――――甲冑の男が移動し、その今まで陰になって見えなかったところから、一人の少女が現れた。
 アイリは思わず………………目を見張った…………。
 あまりのことに一度、視線を逸らし、それからまた見つめ直してしまった。
 陰から現れた少女は、それはそれは、とてつもない美少女で――――今までの人生で出逢ったことのないような美少女だった。
 少女はふんわりとやわらかなストロベリーブロンドの髪をしていて、その色彩は室内の照明をあびて無数の光彩を放っていた。一本一本の線が細く、しなやかな髪は全体的には緩やかなカール、肩にかかる先端部はより強めのカールで動きをつけている。洗練されたフォルムは優美で、どこまでも上品だった。豪奢な髪の中には、小さな卵型の顔が、きめ細かくなめらかな白い肌を覗かせている。瞳は輝ける宝石エメラルド、纏っている二層式のベルラインドレスは、ハイウェストのコルセットになっている上がスカーレット、膝から下はクリーム色のペティコートスカートが足元まで覆っている。その容姿、その佇まい……。彼女の装う全てのパーツが、彼女の高貴な品格を、生まれながらの貴族であることを告げていた。
(萌えええええええええええええええええええええええ!)
 また、アイリの悪い蟲が騒ぎ始めた。
 なんという衝撃。なんて、美少女なんだろう……。
 見ているだけで心が躍り、自然と顔がにやけてしまいそうになる。
(でもなんで、こんなとこにいるんだろう…………?)
 むさ苦しい冒険家たちの中で、彼女の存在はあまりに異質だった。
 と、その時――――。
 貴族の少女がこちらに気づいた。
 彼女は美しい、よく透んだ瞳で、アイリを見た、瞬間――――。
「静粛に」
先程、迷子のアイリを案内してくれた老紳士が、室内の者たちに向かって話し始めた。一同がぞろぞろと姿勢を正し出したので、アイリもそれに倣った。
「みなさん、本日はようこそお集まりくださいました。私は八選国会議員ブロームの秘書、ロングッシュと申します」
ロングッシュとは手紙の差出人だったはず。図らずもアイリはその当人に道案内を頼んでいたのだった。その様子は、紳士というより執事といった方が的を射てるかもしれない。細身で背が高く、濃紺のスーツを上品に着こなしている。真っ直ぐに伸びた背すじは「聳え立っている」という表現がよく似合った。
「近年、巷では『RED STONE』について、多くの噂が溢れています。我が議員は『RED STONE』に関してゴドム共和国で広がっている風聞の類を、今度の定期国会に提出する予定です。そこで、皆様にはこのブルンネンシュティグに広まっている噂を集めて来て頂きたいのです」
先程、入り口にいた受付の女性が紙とボードを配り始めた。紙には2列20行くらいの表が記されている。ボードには万年筆が括り付けられており…………要するに「RED STONE」の噂を集めて、氏名と内容を確認してこの表を埋めてこい、ということらしい。
「ご協力頂いた方には、多少のお礼はさせて頂きます」
(おお!)
「お礼」と聞いて反応するアイリ。「多少の」という副詞は余り聞き取れていない。
「これは、強制ですか?」
集められた一人の男がロングッシュに問いかけた。もっともな疑問ではあるが、どことなく尋ね方が嫌味を含んでるように思われた。
「いえ。あくまでも皆様の、ご協力です。関心がない、という方は、ボードをお返し頂いても結構です」
唐突な仕事の依頼に、室内はざわめき立った。

 

 

 一通りの説明と質疑応答が終わると、とりあえず解散となった。よくわからないけど(よく話を聞いてなかったけど)、とりあえず噂話ってやつを集めればいいのかな? さっき質問してた人たちも、結局ボードを持ってったから、集めにいくみたい。――――しかし。
 そんなことより何より、アイリには気がかりある。
 それは"彼女"のことだった。
 こうゆう時にアイリは自分が女であることを悔んだ。男ならばナンパでも何でも、声をかけるきっかけがある。しかし、同性である自分には特に声をかける、自然な理由がないのである。何かうまい理由(こじつけ)はないものか………………けどあんま、ジロジロ見るわけにはいかない………………どうしたものか…………。そんなしょうもないことで、アイリが頭を悩ませていると。
「あのぅ、すいません」
彼女がいた。振り返るとそこに。驚いたことに、彼女の方から声をかけて来た。
 背が低く、近くで見るとなお可愛らしい。上目遣いでこちらを見つめながら、エメラルドの瞳をキラキラさせている。お人形さんかぬいぐるみのような愛らしさだった。小さな鼻と口。唇は上唇に比べて下唇が厚く、うすく入れたルージュが艶かしかった。左の耳の上に羽飾りの髪留めをしていて、それがどことなく蟲惑的だった。
「ハイ、何か」
緊張のため、思わず声が上ずるアイリ。
「私、昨日、この街に来たばかりなんですぅ。だからここのこと良くわからなくて〜」
白く綺麗な肌。アイリは時間が止まったように見つめている。
「もし良かったら、噂集めの話、一緒に手伝ってくれませんかぁ」
なんという合理的な話! 確かに、近ごろ世の中物騒だし、そうでなくてもこんなに可愛い貴族の女の子、一人でいたらどんな危ない目に遭うかわからない。それに古都に来たのが初めてならば、噂話の収集も街の散策にも、誰か案内についてもらった方がいい。そしてそれは、他の厳つい冒険者や荒くれ者共よりも、年も近く同性のアイリが適任に違いなかった。少女の立場からしてみれば、おそらくもっとも自然な発想に基づく提案であったにも関わらず、アイリの方は先述の通りよこしまな発想を起点としているので、その案に気づくことがなかった。
「え、いいよー。あたしでよかったらー」
はにかみながら同意するアイリ。――――ふと、少女の瞳がエメラルドの深みを増したようだった。
(あれ? なんかフインキが………………さっきと違う??)
「あなた……」
少女の視線が訝しい。口調もさっきまでと異なっている。
「ひょっとして女?!」
(えっ!!)
どうゆうことかよくわからないまま、「コクン」首を縦に振る。
「なぁんだー」
(???!)
少女は呆れるのと安堵するのとで「猫被って損したー」と呟いた。さっきまでの天使のように完成された様式美の表情は一変して、今は普通の女の子のような無邪気な笑みを浮かべている。
「まあいいわ。手伝ってくれるでしょ?」
「へ?」
「へ? じゃないでしょ! 私、この街はじめてなの。一緒に回ってよ」
(まあ……いいんだけど…………)
「もし、お嬢さんたち」
少女二人の頭上に影を投げかけて、先刻のロングッシュが会話に割って入ってきた。すらっとして背が高いから、近くに立たれると圧迫感がある。
「お嬢さんたちは、私の手紙をどこで手に入れなさったかな」
手紙は昨日、伝書鳩が運んできました。少女がそう答えたから、アイリも「私も同じ」と答えた。
「そうですか…………」
老紳士の沈黙にどこか含蓄がある。何か言われるのかと思って、アイリは少し身構えた。だが……。
「是非とも、ご報告お待ちしておりますよ」
ロングッシュはそれ以上何も言わず、そのまま立ち去った。
 結局二人は、一緒に噂話集めに行くこととなった。

 

 

 アイリたちが出て行くと室内はいつもの静寂を取り戻した。
「首席。少女が二人も居りましたねえ」
ロングッシュはブロームの首席秘書官。尋ねたのは、先程アイリたちにボードを配った女性、次席秘書官のアイマリーだった。
「うむ……」
ロングッシュは溜息のような返事をした。
「手違い……でもあったんでしょうか…………」
「と思って確認したんだが……。彼女たち、ハトから直接受け取ったらしい」
「聞いてました」
手違いは考え難いことだった。ロングッシュは多少魔術の心得があり、"特殊な術"を伝書鳩に施していた。それはハトたちに、一定以上の元素量に感応する能力を付与させるものだった。伝書鳩は古都を範囲に飛び回り、ある程度の元素量の持ち主、つまり魔力の所有者を感知したら、その元に手紙を運ぶようになっている。手紙には小さな「魔印」が施してあり、それを手にした者には印が結ばれる。「魔印」と言っても程度の低い魔法で、ただハトたちにそれを回避させる目印のようなものである。ハトたちは「魔印」をさけて手紙を運ぶので、同じ者に重複して手紙を運ばない、という仕組みだ。いわば伝書鳩を介した「選別」だった。昨日、アイリに手紙が届けられたのも偶然ではなかったのだ。
「あの若さで既に、それだけの魔力を持ち合わせている、ということか……」
あの娘たちは特別なのかもしれない、そう言いかけて、ロングッシュは口を噤んだ。もっと全然、別の可能性を想起したからである。それは一羽か二羽、感応力が鋭敏になり過ぎたハトがいて、それが水準よりも低い元素量の持ち主に手紙を運んでしまったのかもしれない、ということだった。
「一応、ハトたちの感応力をテストしておこう…………」

 

 

「アンタ名前は?」
もうさっきまでのぶりっこ口調はない。仕草や声質までもがすっかり変わってしまっている。
「アイリだよ。アイリ・クレイン」
「へー、単純ね。アイリって呼ぶわ」
変わってしまっているというより、これが普通なのだ。そう思うと今度は随分、毒っ気が強く感じられる。そのギャップに面食らうものがあったが、とりあえず「単純ね」が何に掛かっているのか分からない。
 でもそれを差し引いても、こんな子、世の中にいるんだなーと、アイリの心には未だ新鮮な驚きが継続していた。少なくともアイリが出会った中で、ここまで可愛らしい子は初めてだった。
(ああそうか。これが「もち肌」ってゆーやつか〜)
彼女の肌を見ながら思った。背が低く幼児体型の彼女の肌は、それこそ本当の幼児のように、ぷにぷにとした瑞々しい弾力に富んでいた。そういえば「もち肌」なんて言葉じゃ聞くが、あんまり見たことがない。校内を探せば他にもいるだろうか。とりあえずアイリは今、彼女の頬を両側から思いっ切り、ぎゅ〜〜〜っとつねってみたい衝動に駆られた(?)。
「なにジロジロ見てんのよ」
愛苦しい顔から発せられる辛辣な言葉に、アイリは不思議な感興を覚えて背筋をゾクゾクさせていたが、それは新たな「蟲」の一匹に他ならない。
「あなたは何て言うの?」
「わたし?」
(他に誰が……)
一々言動が小憎らしい。
「レイモンドよ。……レイモンド・グラース」
「へー」
レイモンドねぇ…………。レイモンド……レイモンド……レイモン…………。
 ピンときた。
「じゃあレモンちゃんって呼ぶね」
「はあー?」
レイモンドは卵顔の上の、よく整った薄い眉を顰める。反面、アイリはノリノリである。
「いいでしょ。レモンちゃん。かあいいでしょ」
「まあ……別に何でもいいけど」
「決まりね!」
いい具合にあだ名が決まってアイリは心を躍らせた。我ながらすばらしいネーミングセンスだ、と。一方レモンは何がそんなに楽しいのか、怪訝である。
 ついでに気になったから、レモンのさっきまでの話し方について尋ねてみた。
「え? 当たり前でしょー。男だと思ったから、あんな話し方したんじゃん」
実はレモンの方もアイリが美少年に見えたからそうしたのだが、そのことは黙っている。それを告白するのは何となく癪だったのと、あとアイリが図に乗りそうだったからだ。
(これはこれは…………とんでもねーコケティッシュガールだぜ……!!)
 天使のような外見と、小悪魔な性格の美少女レモン。
 そんなことにはめげないお気楽おばか娘アイリ。
 二人の冒険はこうして始まった。

 

 

「『RED STONE』の噂話ねえ〜」
余り乗り気がしなかった。「RED STONE」なんてお伽話とかその類でしかない。「RED STONE」を手に入れた者は世界の王になるとか、不老不死になれるとか、何でも一つ願い事が叶うとか言われている。「RED STONE」は絵本や舞台の題材としても取り上げられ、大抵が大冒険の果てに秘境とか魔王を倒すとかして手に入れ、お金持ちになったり、お姫様と結婚してめでたしめでたし、といった感じだ。世間に広まっているのもデマか何かで、到底現実味のある話とは思えなかった。
「とりあえず、片っ端から聞いて回ればいいんじゃない?」
レモンの提案はもっともで、とりあえずそれしかなさそうだった。
 二人は手分けして噂収集に回り、アイリは国会付近、レモンは中央広場を当たってみることにした。

 

 

 国会付近。アイリ、聞き込みに回る。
「すみませ〜〜ん。『RED STONE』について、何か知りませんか〜?」
「あっちいってろ!」
「すみませ〜〜ん。『RED STONE』について、何か知りませんか〜?」
「………………興味ない…………全くこっちは、暮らしていくだけでも大変なのに………………ブツブツ……」
「すいませ〜ん。『RED STONE』……」
「よくわからんな! 俺は海が呼んでいるんで、これで!」
「すいませーん……」
「そんなことよりおじさんといいことしなーい?」
国会警備隊を呼んだ。

 

 

「はぁ〜? あんだってぇ〜?」
「だ・か・ら。『RED STONE』について、な・に・か、しりませんか!」
「わしゃもぅ〜、耳が遠くて、遠くて…………よく聞こえんでのぉ〜〜」
「R・E・D・S・T・O・N・E!」
「……ばあさんはもぅ…………さきに逝ってまったぁだよぉ〜」

 

 

「『RED STONE』? ほほほほっ」
優しげなおばあさん。老淑女といった感じの人。
「え〜〜知ってますよ。『赤い宝石』のことですね〜〜」
 お! やっとか……?
「それはね……」
 うん。
「若いお嬢さん方が、恋をして赤く染めた頬のことを、そうやって呼ぶんですよ。ほほほほほっ」
 は…………はあ。

 

 

「そんなものは幻想だ!」
「ゲンソウ?」
「そうだとも! 人生の負け組みたちが創り出した、儚い幻想なのだよ! 見えない希望に対する虚しい妄想……。そんなことよりも。若者よ! 今を生きるんだ! 君たち若者の未来は今、光輝く無限の可能性を秘め……」
 さいなら。

 

 

「おねえちゃん『RED STONE』さがしてるの〜?」
「ん?」
「わたし、い〜〜っぱいもってるよ!」
 へ?
「ほら、みて! お文房具屋さんで買ったの。赤くて、キラキラ光るんだよ!」
少女は無邪気な笑顔を投げかけてくる。
「おねえちゃんにも一個あげよっか!」
 はははは…………ありがとう……………………はあ。

 

 

 ちょっと休憩。
 これは思ったより手強いな。
 レモンちゃんの方はどうだろうか……。
 私でさえこうだから、この街に詳しくないレモンちゃんは、もっと大変かもしれない……。
 ちょっと様子見にいってみよう。

 

 

(何だあれは……)
中央広場に大勢の人集りが出来ている。遠目からでもはっきりとわかるくらい、騒々しい。今日は何かイベントでもあったのだろうか。集まってるのは野郎ばかりで、みんな色めき立っているようだった。
(…………いた)
人集りの中にレモンはいた。というより、レモンを中心に人集りができているようだった。噴水の淵で男たちに取り囲まれ、烈しい質問攻めに遭っていた。
「どこから来たの!」
「好きな食べ物は?」
「好みのタイプおしえてよ!」
レモンは例のあの、猫撫で声で応じている。
「えぇ〜〜〜。そんなに一度に、答えられませんわぁ〜〜」
困ったような素振り…………、そこで上目遣い。…………なんという手慣れた男誑しの手管……。
(みんな、騙されちゃいかん! あれはそんな玉じゃない。あれは…………猫被ってるだけなのよ!)
人垣の後ろの方では、最早オマケのような扱いとなった例のボードに、男たちが記入をしている。書き終えると隣に渡して、ボードは人集りの中を順繰りに回っていく。どうやら自動でリストが埋められていくシステムになっているらしい。
(自分の方は…………あんな大変だったのに…………)
「俺『RED STONE』のある場所しってるよ! …………ここじゃなんだから、別の場所で話さない? ……そうだ! お昼でも食べながら」
「抜けがけする気か!」
「汚いぞお前!」
「そーだそーだ!」
広場は今や火薬樽のように、一触即発、いつ暴発するか分からない、といった有様だった。
(……こんなになのか? 同じ女でも、こんなにまで違うものなのか……?)
女としてのプライドが打ち砕かれそうになる。
 アイリもまあクラスの中じゃ男子から人気のある方かと思っていたが、からかったり面白半分でちょっかい出してくる奴はいても、こんな風に男たちによくしてもらったことなど、一度もなかった。なまじ中途半端な自信を持っていたせいで、味わされる敗北感も一入である。足元がガラガラと音を立てて崩れていくような、そんな心許なさに苛まされた。
 レモンはふと、男たちの垣根の隙間にアイリを見つけた。その手元に力なくぶら下げられた、真っさらなボードが目に入る。
「あ〜ら、アイリさん。そちらはもう、お済みになってぇ〜〜? オホホホホッ」
高みからせせら笑う。アイリの女としてのプライドが……。
(こ、こいつだきゃ〜〜〜こいつだきゃ〜〜〜〜〜)

 

 

 提出されたリストに目を通しながら、ロングッシュは呟いた。
「お嬢さん……」
「はぁい?」
レモンは甘く少女らしい声で返事する。
ロングッシュは深く息をついて、声を押し出した。
「ご協力は嬉しいのですが」
やれやれ、といった感じで口に出すのも億劫そうだ。
「集めるのは『RED STONE』の噂だけでいいのですよ? …………住所とか趣味とか、好きな食べ物とか…………」
提出したリストを返されて、レモンはそこで初めて中身を確認した。男たちが勝手に書き込んでくれたリストはまともなのは最初だけで、後にいくとレモンの気を引こうとしたのか、無関係な書き込みが散見された。自分の貯金額を書いてる者までいた。
「あぁぁぁ〜〜〜」
あまりの恥ずかしさにレモンの顔が真っ赤になる。
(うけけけけ、ザマー)
アイリの逆恨みも甚だしい。結局自分の分もレモンに手伝ってもらったのに。
「…………まあ、いいでしょう」
ロングッシュはリストを受理してくれるようだった。
(ちっ)
「お二人とも、ご協力ありがとうございました。ところでもうひとつ、頼みたいことがあるのですが…………」
アイリの心に「次こそは!」の念がある。
「……と思いましたが、そろそろお昼なので、またにしましょう」
(あらららら)
時間があったら午後にでも来てください、と。謝礼の金一封を受け取って二人は議事堂を後にした。

 

 

「あああ〜〜!」
アイリが落胆の声をあげた。
 「どうしたの?」とレモンは尋ねたが、貰った封筒の中身を見てたので、理由は明確である。
「500ゴールドぽっち……」
「ぽっち」と言われても、さっきの労働の手当てとしては相応なものである。500ゴールドといえば昼食代には十分な金額だ。が、アイリは別の心配をしていた。今晩の宿のことである。
「いやね〜。(かくかくしかじか)で、家を出てきたんだけど。あたし、お金持ってなくてさ〜。今晩泊まるとこなかったら家に帰んなきゃなんない」
アイリの持ち金は全部で3,000G弱だった。これで昼・夜の食事代を引いたら、今晩の宿泊費は2,000G強といったところか。これでは個室の部屋に泊まれるかどうか……。ブルンネンシュティグには冒険者たちが好んで利用する低価格の宿で「簡易寝台室」というのがある。これは、だだっ広い部屋に仕切りもなく二段式ベッドを並べただけのもので、若い女性が利用するのは憚るべきものがあった。さすがのアイリもこれは避けたい。しかし、だとすると今晩家に帰らざるを得ない。あの親父のことだ。たった二日で戻ったりすれば「も〜〜〜戻ってきたのか〜〜〜〜」皮肉たっぷりにからかってくるに違いない。
「ねえ、とりあえずゴハンにしない? 私、お腹へっちゃった」
考えていてもしょうがない。とりあえずレモンの提案に乗ることにした。
「どっかいいお店知ってる?」
 ふっふっふ……。
 アイリは不敵に笑った。そう聞かれて答えられないやつはブルネーゼとは言えまい。
「いいとこあるよ。安くておいしいお店」
「高くてもおいしければいいわ」
たったいま金がないという話をしたばかりなのに、この返事。
(小娘め……)

 

 

「お〜いしぃ〜〜〜!」
驚きと喜びを満面に浮かべるレモン。その様子をアイリは満足気に見守っている。
 ベーカリーショップ「PEATER PAN」はパンやお菓子、小麦料理中心のお店。レモンが食べているのはパストラミビーフのカスクルート。サラダ菜と玉ねぎとチーズに、マスタードをたっぷり塗って挟んでいる。小麦料理の店だからパン自体がおいしいのはわかるが、ハンバーグやコロッケ、ソーセージなど、中の具材までもがどうしてなかなかおいしいことがこの店の評判の一つである。オリーブグリーンの屋根と明るい黄土色に塗装されたログハウス。おいしいパンと、絵本の世界から飛び出してきたような小洒落た店構えに、若い女性からの人気も高い。値段もお手頃で、学生にとっても敷居は高くなく、ランチタイムには簡単なサラダやスープも用意され、サービスでついてくるコーヒーのおかわりが自由なのが、アイリたちには厚かった。よくクラスの友達と来て、会話が弾んで、お昼休みの時間を忘れることもしばしばあった。
 アイリはベイクドポテトの焦げたマヨネーズの香りを大事にしながら、周りのバゲットと一緒に少しずつ頬張っていく。仲間内では好評だったこの店が、この小生意気な貴族の娘にも通用したのが、ちょっと嬉しい。
「いいわ〜〜〜この店! 気に入ったわ〜〜」
レモンがあんまり誉めるもんだから、アイリはすっかり得意になってしまった。
「だから言ったでしょ。ブルネーゼを、舐めちゃイケね〜ぜ」


 ……………………。
 二人の間に、流れる空気……。


「で今晩の宿、どうするの?」
レモンはミルヒカフェ(有料)を音を立ててすすった。
「えっ! ……ど、ど、どうしよっかなぁ〜」
(…………スルーなの? スルーなのかしら???)
カフェを啜りながらレモンは言った。
「もしあれだったら、一緒に泊まる?」
 えっ?
「いいの? 悪くない?」
思いもしない提案。確かに、見るからにレモンはお金持ちの子だ。宿代など庶民のアイリに比べたら金銭的な負担は少ないのかもしれない。けど、今日初めて会った人に厄介になるなんて、さすがにちょっと悪い気もする。
「いいよ、別に。その代わりに、街とか案内してもらいたいし」
タダで世話になるならともかく、そうゆう交換条件ならアイリも受け入れ易い。
「うん。ありがと〜」
(この子、なかなか、いいとこあるじゃな〜〜い)
さっきまでの悪感はどこ吹く風。
「けど、襲ってこないでよね!」
「は……はあ……」
(一応、私も女なんですけど……)

 

 

 一時間後。再びロングッシュの依頼を受けた二人は、ブルンネンシュティグ地下水路に潜って「RED STONE」の手掛かりを捜していた。
「次にお願いしたいことは、このブルンネンシュティグ地下にある"レッドアイ研究所"に関する件です。閉鎖されて久しいこの研究所には、今なお『RED STONE』に関する手掛かりがたくさん残されていると言います。元々"レッドアイ"というのは旧王国時代に『RED STONE』を研究するために作られた王立研究所ですので。その場所に行って、何か『RED STONE』に関するものを見つけてきてほしいのです」
 アイリは眠かった。お昼を食べたばっかりで頭が回ってなかったし、ロングッシュの堅苦しい論調がそれに拍車をかけた。うんざりだった。
「おっちゃん、話がなげええよ。もうちっとわかりやすく言ってくれるかな」
無遠慮なアイリの物言いに、ロングッシュはぎょっとした。次席秘書官アイマリーは驚いて目をシロクロさせた。
 アイリの悪態は続く。
「ウチらバカだから、もちっと短くまとめてくれないと」
(ウチ「ら」? ……私も入っているの??)
とレモン。
 アイマリーは思わず吹き出しそうになった。彼女は少し離れたところで作業をしていたが、いまやアイリらのやりとりから目が離せなくなっている。
「お、お嬢さん。お若い女性が、そのような口を利いてはいけませんよ……」
ロングッシュはあくまでも紳士の嗜みとして、女子供相手に気位を崩さない。一方アイリは眠気は治まってきたものの、変わりにこのお高く留まった老紳士をからかってやろうと、悪戯の「蟲」が頭を擡げてきた。
「いいんだよ。この、はげちゃびん!」
(は、はげちゃびん…………)
アイリは何か、鬼の首を取ったかのような得意気な様子である。後ろからは一生懸命堪えていたアイマリーの、押し殺し切れなかった笑い声が聞こえてくる。ちなみにロングッシュは、額の生え際こそ後退して普通の人よりも広くなっているが、繊の細い白髪を後ろに流していて全体としての髪の量は豊かである。
 完全に言い掛かりであるアイリの挑発に、遂に初老の紳士はプッツンした。
「いいから行ってこい!!!」
二人は走って逃げ出した。

 

 

 アイリたちが向かっているのはブルンネンシュティグ地下にある、旧レッドアイ秘密研究所。今や完全に廃墟となった王国時代の遺産である。
 「レッドアイ」は旧王国時代に設立された「RED STONE」探索専用の研究機関。王室直轄の秘密結社である。研究のため極東部各地にその手を伸ばし、その成果は目覚しいものがあった。一説には「RED STONE」を発見したとも伝えれられている。しかし発見と同年、かの有名な「シュトラディバリ家の反乱」が起こり王国は壊滅、それに伴ってレッドアイも瓦解してしまった。数多くの研究資料は紛失し、「RED STONE」も行方知れずになったという。それから120年余りたった今でも「RED STONE」の探索は続けられている。しかし、レッドアイ程「RED STONE」の真実に近付けた者はなく、ただその不思議な石の伝説は、巷間の語り草として取り沙汰されるばかりである。
 ここブルンネンシュティグ地下にある旧レッドアイ秘密研究所も、その数多くある支部の一つであった。
 探索のために地下に潜って、まだ5分と立っていない頃である。
「ねえアイリ。やっぱやめない?」
アイリの後ろをついてきたレモンが後ろ向きな発言をしてきた。
「なんか薄気味悪いし……、引き返すなら今のうちだよ〜」
地下道は暗かった。一応通路に魔源灯(ランプ状の照明具。魔法によって元素を光源とする)が備えられてあるが、その明かりは通路を照らし渡すには不十分で、その陰影が却って薄気味悪く感じられた。
「なんかじめじめしてる〜〜」
地下からは分かりづらいが、構造上ここの壁の向こうは水路である。ブルンネンシュティグは「水の都」と呼ばれる程、いくつもの水路が街中を走っているので、地下はちょっとした迷路のようだった。その迷路の所々から、黴臭さや腐臭が漂っていて、その強烈な臭いは一度嗅いでしまうと、いつまでも鼻について残って不愉快極まりなかった。
 育ちのいいレモンは、暗いのも薄気味悪いのも、汚いのも臭いのも、じめじめとした湿気のあるのも好きくなかった。「お肌とお洋服が汚れちゃうわ〜」といった感じで、とにかくもう、帰りたかった。
 一方アイリは、根っからの悪戯っ子なのだろう。一緒にいるレモンが嫌がれば嫌がるほど、却って先に進んでやろうという気が起こってくる。また自分たちが普段過ごしている街の地下に、こんな不思議な空間が広がっているのかと思うと、探究心が擽られる。特にレッドアイ秘密研究所の「秘密」というワードに好奇心が疼くのだ。秘密基地とか、秘密の隠れ家みたいに、何かそこには他人には知られてはいけないような、とんでもないモノが隠されているのではないだろうか……。結論を先に言ってしまうと、「旧レッドアイ秘密研究所」の「旧」というのは、当事の人々が付けたものでなく、後の世の人たちによって付けたものである。こんな街のすぐ地下にある研究所など戦時に荒らされ、後世の冒険家らに探索され……。「秘密」どころか散々人の手によって介入された後である。ちょっとしたものならともかく、革命的な大発見などある筈もなかった。
 自分の意見を殆ど無視して、ひとりでつかつか歩いていってしまうアイリに、仕方なくレモンはついて行った。
 と、壁の隅の方で、何かが勢いよく駆け抜けていった。
「きゃっ」
ネズミか何かだった。
(か〜え〜り〜た〜〜い〜〜〜〜)

 

 

 歩いていくと、これまでの地下道と様子の違う空間があった。
 境界の扉は崩れてなくなっていたが、そこは明らかに通路でなく「部屋」だった。そこは机や椅子、本棚、戸棚などがあって、何者かによって使われていた形跡がある。
(おそらくここが秘密研究所…………)
 部屋の規模からいって10人くらいの研究所だろうか。壁に面してる机は個人用で、中央には会議などで使いそうな長机がある。その周りに雑然と椅子が散らばっており、それぞれ脚や肘掛や座部、何処かしらかが壊れていて万全なものはなかった。戸棚には学校の実験室にあるような、試験管やビーカー、フラスコが並べられている。何かをビン詰めにしたものがあるが、名札のインクが掠れていて読み取ることはできなかった。
 とりあえず二人はここで「RED STONE」の手掛かり捜しに取り掛かることにした。が、部屋は埃や蜘蛛の巣でいっぱいだった。レモンはとりあえずホウキが欲しかった。

 

 

「RE* S**N* *査報*書」
レモンが本棚から見つけた書物にそう書かれていた。中身は色あせて読めなくなっている箇所も多いが、文字でびっしりと埋め尽くされていた。
 レモンは「これで帰れる!」と思った。アイリも埃で咽がいがらっぽくなってきたし、これ以上捜しても目ぼしい物もなさそうだった。あと、昨日から探索ばっかでそろそろ飽きてきていた。
「ねえ、もう帰ろー?」
さすがのアイリもその提案を受け入れることにした。「やったー」
 レモンの念願叶って、ようやく地上に戻れるかというその時。どこからか太く低い、呻き声が聞こえてきた。
「ウ、ウウゥゥゥ〜」
「…………」
「レモさん随分変わった声だすね〜」
「ちょ、ちょっと! アイリ!」
嫌な予感が背筋を迸った。二人は声の方向を見た。
 扉が壊れた入り口の方から、まるまる太った巨漢がこちらを見つめている……。ぶくぶく太った腹回りはゴムまりのようで、その重量感は二肢で支えるのは苛酷に思えた。殆ど禿げ上がった頭には数本の毛髪が残り、ちりちりになって逆立っている。全身の肌の色は、全く生気を感じられない土気色をしていた。
 少女たちは声も上げられなかった。
 その間にもその人間――――のような物体は、のそのそとにじり寄ってくる。
 驚きのあまりアイリが全身を硬直させていると、
「逃げ……逃げよう」
いつの間にか服を掴んでいたレモンに引っ張られて、やっと我に返った。
 肥満体はその体格だけに歩みが遅く、落ち着いて逃げれば安全に逃げられる――――筈だった。
 長机と個人用の机の間を、入り口とは逆に向かって進む二人。不意に何モノかの気配を感じて、思わずアイリはレモンを突き飛ばした。
「痛っ!」
 床に突き飛ばされて痛かったし、腕や服や鼻先は埃まみれで汚くなった。レモンが、何でこんな目に遭わなきゃならないのかと己の運命を呪うより早く、獣の荒い息遣いが聞こえた。
 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……。
 犬の息遣い。アイリが突き飛ばさなければ危うくレモンは襲われるところだった。…………しかしどうにも、様子が普通の犬と違う…………。
 長い舌をだらんとして、牙を怪しくぎらつかせている。その様子を観察する間もなく、犬はまたすぐアイリに向かって跳びかかってきた。
 咄嗟に、アイリは近くにあった椅子でぶっ叩く!
「キャウーン!」
普通の犬のような悲鳴を上げて弾け飛んだ。
 一撃あびると犬は警戒したのか、距離をとったまま唸り声を上げるだけになった。口元から垂れる涎の量が尋常じゃない。
 犬と肥満体とに挟み撃ちにされる形で緊迫した中。アイリはふと思った。
(あたし……動物虐待?)
 「木の椅子で思いっ切り引っ叩く」――――確かに虐待と言えるかも知れない、相手が動物であるならば。
 かつてこのレッドアイ秘密研究所では「RED STONE」の研究以外に、様々な魔法や化学薬品の実験が行われていた。寿命を延ばす薬、洗脳薬、筋力を増強させる薬、魔法力を強化する薬……。それらを活用した生体兵器の開発も行われ、動物だけでなく、人間もその被験者となった。今アイリたちに襲いかからんとしているのは、その実験薬を投与された「モルモット」たちだった。彼等は不滅の肉体を手に入れるとともに、永遠に満たされることのない渇きと、視界に入った者を攻撃するだけの知能を与えられた。その生態は「ゾンビ」と何等変わりない。「動物」よりも「不死生物」のカテゴリーが適当である。
 勿論そんなこと、アイリたちには分からない。分かっているのは、今目の前に危機が迫っていることだけ。だから当然知る由もない。投与された「薬品」は感染力のあるウイルスであり、その手にかかって傷を負おうものならば、血液感染によって自らも同じ道を辿る可能性が有ることを。
 壊れた入り口からまた別のモルモットが現れた。1体……2体…………。
 アイリは壁を背にして考える。
 右手にいる犬は足が速い。こいつを何とかして奥に逃げるか、入り口の肥満体を掻い潜って逃げるか……。でも私はいいけど、レモンちゃんは? ……あの服じゃ掴まれちゃうかもしれない。
(どっちにしてもあたしがなんとかしなくちゃな…………それには武器が必要だ………………って、え? あれ? …………あたしの木の棒、どこいった???)
 アイリの記憶が目紛るしく回る…………。
 さっきロングッシュに怒られてきた時は手ぶらだった。
 「PETER PAN」でも持ってない。
(……そうか、だからさっき椅子で犬、殴ったのか…………)
 朝、議事堂で迷子になった時も持ってなかった気がする……。
 ………………。
(あああああああああああああああ!)
 宿に置いてきた。
(やべーよ! どーすんよ、あたし!)
 内心慌てふためきながら、とりあえず手頃なものがないか、ごそごそ辺りを探す。その間、犬の奴が一足飛びにやってこないか、警戒は怠らない。だが事態はさらに悪い方へ向かっていた。
 部屋中央の長机の上に、不可思議な霧のようなものが漂っている。霧は一点に集まて色濃くなり、やがてその姿を現し始めた。気がつけば、霧は法衣を纏った司祭の姿を形作っていた。
 法衣を纏った者は、奇妙な手つきで印を結び始める――――魔法の詠唱だ。
 右手の犬、左手の肥満人、正面の魔法師………………武器を持たないアイリには為す術がなかった。絶体絶命だった。
 ふと、隣にいるレモンを見やった。怖くて震えているのか、うつむいていて顔は見えない。
(ごめんねレモンちゃん)
さっきの方法で肥満体を掻い潜っていけば、アイリだけは助かったかもしれない。けどそれでは残されたレモンに待ってるのは、確実な結果だし、そんなことアイリには出来っこなかった。
(ごめん……ウチら……ここまでかもしれない……………………ん?)
そこでアイリは異変に気づいた。
「レモンちゃん?」
レモンの様子がおかしい。地下室で風がないのに、髪がたゆたい、ペティコートスカートの型のない裾の部分が舞い上がっている。瞳が蒼い光をたたえていた。
(…………魔法?)
昂ぶる元素は神々しく、アイリは思わず圧倒されそうになる。
 汚さと怖いのと臭いのと…………もう何がなんだかわかんなくて、レモンがパニクった。


 ………………もう…………
 いやああああああああああああああああああああ!


 激しい絶叫とともに、蒼白い光が解き放たれ、地下空間を明るく照らし出した。
 電撃魔法――――――レモンが発した強烈な稲光は、荒れ狂ううねりとなって怪物たちに襲い掛かった。部屋の怪物たちは次々とその魔の手にかかり、犬と肥満人間は感電し、霧の魔法師は一瞬にして消滅した。
 魔法には大きく分けて直接魔法と間接魔法に二大別される。直接魔法は抽出した元素を具現化して作用させるもの。「具現魔法」とも言われる。間接魔法はさらに「付加魔法」と「感応魔法」に分別されるが、どちらも抽出した元素を「依り代」に結びつけることで作用する。昨日アイリが木の棒に施した魔法は間接魔法で、今レモンが発動しているのが直接魔法である。
 直接魔法はより強力な元素の練度が必要となり、特にこの電撃魔法のように、依り代もなく遠距離まで魔法を作用させるのは、並大抵のことではなかった。
 入り口のモルモットたちも次々と倒れ、レモンの強力な電撃魔法は部屋中の危機を一掃しようとしていた。
 アイリの表情に思わず笑みがこぼれた。さっきは「もうこれまでか」とまで覚悟したのに、それが一瞬で覆されて、窮地を脱するどころか相手を撃退するまで追い遣っている。それも、自分は一切何もせずにだから、笑うしかなかった。
(はあ…………とりあえず助かった…………って、ええええ?!)
怪物らを片付けたレモンの魔法、そのまま勢い余って、今度はアイリに襲いかかってきた。
「のわああああああああああああああああ」
アイリは逃げようとした、が、無駄だった。背中に青白い魔法の直撃をくらって、そのまま地面に突っ伏した。
 ぷしゅううう……。
 アイリの断末魔の叫びを聞いて、レモンは我に返った。
「ああ……!」
アイリのなきがらの傍に駆け寄り声をかける。
「アイリ! 大丈夫?! しっかりしてぇ!」
瀕死の重体で、何か懸命に口をぱくぱくさせているが、何を言ってるか聞き取れない。レモンは必死になって介護しようとした。が、そんなアイリの懸命な様子を眺めていると、
「…………ぷっ」
不思議とこみ上げてくるものがあって、思わず吹き出してしまった。
 最初は堪えてコロコロと笑っていた。が、そのうち我慢し切れず、大笑いになった。
「あっはっはっはっはっ!」
 レモンは少し前のことを考えた。
 ここは本当に暗くて臭くて汚くて……。それに変なのばっか現れて、さっきは本当にやばいと思った。慌てて護身用の魔法を使ったら、みんないなくなって無事だった! ……と思ったら、今度はアイリが倒れてる。あの活発で行動的なアイリが、自分の魔法で動けなくなって、それでも口だけ鯉みたいにぱくぱくさせてるのが何だか面白かった。
 こんな風にお腹の底から笑うなんていつ以来だろう。レモンには、それはちょっと思い出せそうになかった。アイリといると色んなことが起こる。今日一日だけでも色んなことがあった。ちょっと怖かったけど、楽しかった! こんなにもすがすがしい気持ち、なんて久しぶりなんだろう。これからもこんな日が続くのかな…………。
 レモンからしてみれば、安堵と感謝の気持ちの入り混じった、プラスの意味での笑いだったのだが、当然アイリの眼にはそう映らない。ただ動けなくなった人の気もしらないで能天気に笑っているようにしか見えなかった。誰のせいでこうなったと思っているのだ!
「っぷ……くくくっ…………ごめ、ごめんねアイリ…………くくくくっ」
謝りたいのだが笑いが止まらない。そろそろお腹も痛くなってきた。
 アイリも懸命に口を開いて、
(てめぇ〜〜〜〜この〜くそレモン。コロスぞ〜〜)
くらいのことを言っていたのだが、口は動いても声にならない。ただ視界ははっきりとしていて、レモンが大笑いする姿だけはしっかりと捉えていた。
「あっはっはっはっは〜!」
 ちなみにここゴドム共和国において、魔法によって他人を害することは立派な法律違反である。まだまだ謎だらけで解明されてない部分も多い魔法だが、だからといって罪が軽くなったりすることはなく、通常どおり傷害罪の適用となる。その場合、法定刑に基づき10年以下の懲役又は20万ゴールド以下の罰金が処せられる。
「あっはっはっはっ! …………ひっ、ひっひぃ〜」
(ぜってぇ〜〜コロス……いつかコロス…………) 
アイリとレモン。二人の長い冒険、最初の一日のことであった。

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