第4章 新しい日々の始まり

 西の洞窟付近のコボルトは数が多かった。さらに窟内まで探さねばならないとなると、時間はいくらあっても足りなさそうだ。そもそもあんなとこ、乙女が一人で行くとこじゃないだろう。
 そこで乙女が取った手段は…………片っ端からコボルトをとっ捕まえて、薬を見た者がいないか聴取して回ることだった。最初はみんな「キエエ、キエエ」言っていたが、木の棒で一撃お見舞いしてやると大抵ゆうことを聴いた。
 どうやらさっきから一様に同じ方角を指して「キエエ、キエエ」言っているのは、あっちの方向に何か手がかりがあるらしい。そういえばアリエルも「南の森」がどうとか言っていた。
 よし。
 とりあえずここらの捜索はいいだろう。
 洞窟にも入らなくて済みそうだ。
 アイリが南に向かうと、コボルトたちが一斉に「キエエ!キエエ!」と騒ぎ立てた。おそらくあれは「非道い人間めっ!」とでも言っているに違いない。

 

 

 プラトン街道を跨いで南へ。その先の森を進むと、大きな沼がある。
 コボルトはそこにいた。薬屋の紙袋を持って。
 アイリも大分、子供の頃のような度胸が戻ってきた。怖いもの知らずで何でも来いと思っていたあの頃に。
 木の棒の扱いにも慣れてきた。が、ただ一つ。そのコボルトがそれまでのと違っていたのは、その手に長い棒状の武器――――石槍を持っていたことである。
 武器といっても、ただ棒切れに石を括りつけただけの粗末なものである。しかし、それは明らかに他者に危害を加えるためのものであり、日々の営みの中のコボルトを相手にするのと、臨戦態勢にあるコボルトを相手にするのでは、大分勝手が違う。油断したり、一歩間違えたりすれば、自分がどんな危険に遭うかはわからない。下手をすれば命にかかわることも。
 おそるおそる、今までにない慎重さで近づく。無意識の内に息は殺していた。沼は森が開けた場所にあったので、予想はしていたが、敵もこっちに気付いたようだ。好戦的なコボルトの戦士は、構えて近づくアイリに向かって、威嚇の奇声を発し始めた。
「キエエエエエー!」
 少し怖い‥‥‥だが。
 あれは威嚇なのだ。惑わされてはいけない。
 心臓の音が聞こえる……。
 落ち着け。
 力もスピードも、自分のが上のはずだから。
 息を呑んだ。
「キエエエエエエエエー!!」
「とおおおおおりゃあああああああ!」
今までとは違う種類の緊迫感を胸に覚えながら、相手の間合いに入らないように、石槍の柄を撃った。今まではいきなり頭部を狙ったが、こいつの間合いの外からは届かない。
「カンッ!」
棒が棒を打ち付け、乾いた音を立てて、はじけた。
 アイリの一撃にコボルトの石槍を持つ手が痺れている。力も体重も遥かに人間のアイリの方が上なのだ。
 その隙をアイリは見逃さなかった。
「えいっ! たーっ!」
 アイリの連撃。コボルトに息のつく間も与えない。遂に耐えかねて、コボルトは石槍をこぼれ落としてしまった。
「キィィィーーーッ!!」
 それでも抵抗を止めようとしない。歯を剥き出しにして、必死に威嚇した。爪と牙だけで戦うつもりだ。
 だがアイリも負けていない。威嚇に怯まず、前進した。
「このっ! このっ! この〜〜〜!」
観念しなさい、とばかりにアイリは棒をひたすら打ちつけてやった。激しくデタラメなアイリ流棒術は、打ち損じも多かったが、とにかく手数が多かった。右から左から、左から右から。棒切れは空を切る度ぶんぶん唸った。
「キエエック〜」
体中をしこたま打ち据えられて、とうとうコボルトは逃げ出していった。

 

 

 薬を手に入れて、意気揚々と帰るアイリ。
 森を抜ける途中、共同墓地近くを通りかかると、何者かの気配を感じて立ち止まった。
(誰……?)
 見上げると木の葉が、笑っているように、見える…………?
「どちら様ですか?」
なんで声なんかかけてしまったのか、後になって考えてもわからない。
(……?)
 今度は確かに笑った姿が見えた。意識が明瞭になるとともに、それがなんなのかはっきりわかってきた。肉体が滅んでも成仏できずに魂だけになって現世を彷徨う、ゴーストが笑っていた。
「ぎょえええええええええええええええええええええええ!」
奇声を上げて一目散に逃げ去った。
 アイリはお化けが怖かった。心臓が喉から飛び出るかと思った。

 

 

「ああ。本当に取り返してくれたのね…………ありがとう」
アリエルが新緑の笑顔で迎えてくれる。今度こそ本物を取り返せたようだ。
「危ない目に遭わなかった?」「いや〜全然だよ〜」
(ホントはたった今、死にそうな目にあったけど……)
街の近くとはいえ、人里を離れるとどんな恐ろしいモノが潜んでいるかわからない。コボルトのようなモンスターから、先程のゴーストのような亡霊まで。世界は様々な危険に満ちている。
「お父さ〜ん」
アリエルは家の中に父を呼びに行った。それを待ちながら、アイリは困難を乗り越えて、一つのことをやり遂げた達成感の余韻に浸っていた。
 ところでさっきから気になる、この鼻腔をくすぐる芳ばしい香りはなんだろか……。焦げたチーズか何か…………。
(ああああああ!)
 今になってやっと気づいた。
 お昼を食べてなかった。朝から忙しかったせいで、すっかり食事のことなど忘れていた。きっとアリエルの家も、いまさっき昼食を済ませたところなのだろう。
(腹へった………………)
 思い出したら、急に減ってきた。育ち盛りのアイリは一日三食きっちり食べる。むしろおやつだって欠かさず食べたいくらいだ。好き嫌いもあまりなく、どこの家庭でも聞かれる「好き嫌いせず食べなさい」という常套句を、親から言われたことがない。
「ぐううううう」
主人がこんなにお腹をへらしているのに、何も言わない胃袋の代わりに、口で代弁した。
(ピッツァかグラタンが食べたい…………)
「お嬢ちゃんが、薬みつけてきてくれたんだって?」
空腹でテンションも下がりつつある中、家から出てきた大男が話しかけてきた。後ろからアリエルが付き添ってくる。
 こちらが病床に就いているとかいう、アリエルパパだろう。今さっき、アリエルの手料理を食べたのだろうか…………。名前はアトボンといった。頭髪を全て剃り上げて、逞しい顎鬚を生やしている。背は高く、厳つい骨格、隆々とした鎧のような筋肉、その精悍さは服の上からでも容易に分かる。フレンチスリーブから覗かせる二の腕は丸太のようで、アイリのウェストより太いかと思われた。
(ご……ごつい…………。ホントに病人さん?)
「よく知りもしない私のために、ありがとうね」
笑うと白い歯がむき出しなって、光った。
「い……いえいえいえ……」
(親子? 血はつながってるのかしら…………)
後ろのアリエルは涼しげな顔つきで見守っている。
「けど、どうして見ず知らずの私たちを助けてくれたんだね? 危険まで冒して」
まさか「アリエルの気を引くため」なんて言える訳がない。適当に回答を取り繕った。
「……人から、困っている人がいるって聞いて…………」
そうそう。我ながらいい答え。なんで人助けをするかと言えば「そこに困っている人がいるから」だ。………………ホントは、なんで薬取りにいったんだっけ?
「フム……」
アリエルパパはさっきお礼を言ってきた時とは違って、厳めしそうに眉を顰めた。厳めしそうに見えるのはその外見のせいだろうか。
「なあ、お嬢ちゃん」
顔が正面にくると、怖い。アリエルパパは構わず話し続けた。
「怪物どもが蔓延っている昨今、世の中には危険がいっぱいだ。今回はたまたま相手がコボルトだから良かったものの、もし相手がそれよりもっと手強い奴でも、お嬢ちゃんは向かっていくのか?」
(…………私…………怒られてるの……?)
言ってることがよくわからなかった。そもそも今回は「コボルトが相手」というのは前提だったから「もし〜」のことまで考えてない。でも自分なら、多少危険でもなんとかできそうな気がする。最悪やばい目に遭ったら、逃げ出しちゃえばいい。かけっこには自信があるし、体力だって持つ方だ。全力で逃げ出せば、追いつけるヤツなんてそうそういない……。そんな思考を廻らしながら、或いは訝しそうな視線をちらつかせていたかもしれない。
「人助けごっこもいいが……」「お父さん……!」
アリエルが口を挿んだ。純粋に善意でアイリは薬を取り返してきてくれたのだ。これ以上の発言は礼を失することになる。少なくても「人助けごっこ」は、助けられた側が言っていい言葉ではない。
 アトボンは自らの度が過ぎたことを感じた。アイリはこの話の流れの行き着くところがどこなのか、不安そうに視線を泳がせている。
「そうか……」
アトボンが呟いた。そして少しだけにこやかな表情を作って語りかけた。「お嬢ちゃんにもうひとつ、頼みたいことがあるんだが…………」
アイリは黙って話を聞く。アトボンは滔々と続ける。
「街に、アリエルの友達で、ポラックという青年がいるんだが。彼が昔、両親の遺品を失くしてしまったらしい。俺の体が良ければ自分でやるが、この通りなのでな……。代わりにお嬢ちゃんが行って、探してきてやってくれないか」
「……!」
アリエルが何か言いかけそうになったのを、アトボンは制した。
 それがどうにも不審に思えた。しかし…………。
「何をどこで失くしたんですか?」
とりあえず踏み込んでみた。その反応にアトボンは手応えを感じる。
「詳しいことはポラックに聞いてくれ」


「お父さん…………」
アイリが去った後、アトボンは一人で戸口に向かってしまった。
 アリエルは、父がなんであんなことを言ったのか知っている。
 アトボンもかつては屈強な戦士だった。そのせいで体を悪くして、今は引退してしまったが。しかし、だからこそアトボンは、危険を顧みず行動する他人を放っては置けない。人には出来ることとそうでないことがあり、誰でも自分の出来る範囲内で行動すべきだと考えている。少なくともアイリのように、善意で人助けをしようとしている人間には、危険な目に遭ってほしくない。自分と同じような目に遭わせたくないのだ。あんなことを頼んだのも、叶えられない依頼でアイリの心を挫けさせ、それを知らしめることが狙いだった。
「だって、見つかりっこないもの……」

 

 

 アリエルからポラックがいそうな場所を聞き、それを辿るとすぐにポラックは見つかった。ポラックは川沿いのベンチで本を読んでいた。
「お! こんちは。今朝のお嬢ちゃんだな」
「こんにちはー」
これまでの事情を説明した。
「おお。あの話か…………」
 ポラックの話によると、両親の遺品とは、大分昔に失くした小さな結婚指輪だという。値打ちものではないが唯一の形見だから、見つけなければと思っていた。でも失くした場所が場所だから、あの頃の自分が探しに行くのは容易でなかったし、冒険家に頼もうと思ったが、やたら高い報酬を要求されて、とてもじゃないが払えなかった。
「どこで失くしたの?」
「墓地なんだ。子供の頃、友達と肝だめしをしていたら、いきなり地面から手が生えてきて……。慌てて逃げたはいいが、気づいたら指輪を失くしてたんだ」
「ふーん」
 そうか墓地で失くしたのかー。じゃあ墓地を捜せばいいんだね。
 …………墓地?
 アイリの脳裏で、先刻のゴーストが嘲笑った。
 背筋に寒気が走った。
「でも、もう昔の話だから気にするなよ」

 

 

 「気にするなよ」と言われても、気にしなければならない事情がある。嫌々ながらも、アイリは先程の沼よりさらに南にある共同墓地――――別名「亡者の憩い場」へと向かった。
 しかし冷静になって考えると、ポラックの子供の頃の話だという。少なくとも5年以上は経っていることだろう。
「見つかりっこねええーー」
 共同墓地に辿り着くとさらに、その広さに愕然とした。長年の風雨にさらされて、錆びて赤くなった鉄柵に囲まれたその区画には、二点透視図法で描かれた絵画のように、墓石が彼方まで連なっていた。また地味ながらも所々に生えている草が目についた。土や墓石の上ならば、見つかり易いとは言わないが捜し易い。それに比べて、一々生い茂る雑草を掻き分けて捜すのは、存外骨の折れる作業だった。
「うっうっ……」
半べそを掻きながら、アイリの指輪探しは始まった。
 昼下がりの太陽の暖かさを、吹き荒ぶ風が運んで、辺り一帯に春気が溢れていた。しかしこの穏やかな春の気候は「墓地」という場所と組み合わさることによって、アイリの心に不思議と不気味な影を落とした。それは墓石や揺らめく木々の陰に、この溢れかえる暖気に伴って、溢れてはいけないものまで溢れて、具現化してきそうな気配を感じてしまうのである。もともとお化け嫌いなアイリであったが、当に先刻そうゆう目に遭っているのだから、そんな不安に駆られるのも仕方がなかった。

 

 

 アイリの捜索は続く…………。
 もう何度も何度も「もうやめにしよう」と心の中で呟いた。その度にさっきのアトボンとアリエルの様子が思い浮かぶ。ポラックは気にするなと言ってくれたが、もし「見つかりませんでした」と帰ろうものならば、アトボンから何を言われるかわかったもんじゃない。少なくとも話のイニシアティブは握られて、反論しようものならば今回の件が槍玉に挙げられるのだろう。長年大人たちに怒られ続けてきたアイリには、その程度の危機察知能力は備わっているのだった。
「ちくしょ〜〜〜〜」
 「大昔に失くした」「小さな指輪」「広大な墓地」「お化けが出てきそう」…………。アイリのモチベーションを下げる数々の悪条件たち。それに対抗する動機は「アトボンに怒られるから」。どちらが勝っても楽しい結果はなさそうだった。そうやって、うんざりしながら墓地面積3分の1くらいの探索が終わったとき、女神は舞い降りた。
「アイリさ〜〜ん」
遠くから呼びかける、声の主はアリエルだった。
「おやつにしましょ〜よ〜〜」
もしアイリのお尻にしっぽが生えていたら、この時それはどれだけ早く振られたことか。

 

 

 道中二人は他愛のない話をした。
「実はお昼抜きだったから、お腹ペコペコだったんだよね〜」「あら〜」「さっきアリエルん家行った時なんか、チーズのいい匂いがして、グ〜グ〜グ〜グ〜、お腹が鳴る鳴る……」
「だと思って、ちょっとおやつ多めに作っといたの」
意外なことにアイリの空腹は見透かされていたらしい。
「え? わかった?」「うん」「ウソ〜?」「顔に出てた」
 恥ずかしい……。と思う16才の乙女。
「嘘よ」
アリエルは笑って言った。
 さっき偶然、墓地へ向かうアイリを見かけて、思ったらしい。西の森から戻ってウチに来たのがお昼過ぎ、それから街へポラックに会いに行って、こんな時間にもう墓地に向かっている。お昼食べる時間はなかったんじゃないかなあ、って。
 アイリは感心しながら聞いている。言われてみれば、確かにそうだが。普通はそこまで気は回らない。さすが古都一だなと思った。

 

 

 家の前にアトボンの姿が見える。太い樹幹を縦に半分に割ったテーブルに、椅子も木の幹を円柱状に切り取った物が4つ並んでいる。アトボンはテーブルの奥側の左手、戸口から一番近い場所に座って新聞を広げていた。
 アリエルに言われるがまま、アイリは対角の席に着いた。が、さっきの件があるから若干の緊張感がある。アトボンは新聞から、アイリの方に視線を移して訊ねた。
「どうかね?」
当然指輪の探索について聞かれている。テーブルの幅は程よく、対話するにはやや遠い。さらにそこから新聞の分、隔てられている。
「いえ……全然みつからないです」
視線は再び新聞に戻している。紙面をめくる音が耳についた。
「フム……。まあ、とりあえずおやつにしよう」
その語調には、僅かながらアイリの警戒を和らげるものがあった。
 と、アリエルがアップルシナモンパイの芳醇な香りの詰まった籠を運んできた。
「アリエル。ヘバは誘わなかったのか?」
また新聞をめくる音。
(ヘバ……? まだうろついてたのかな?)
そんなことより、アイリは目の前の甘い匂いが気になってしかたがない。
「誘ったんですけど……」
アリエルはパイと野菜スティックのグラスを置きながら答える。
「走って行っちゃったんです」
思わず吹き出しそうになった。ヘバの奴、アリエルに気があるなら、一緒について来れば良かったのに。アリエルから誘われたことに、喜びで舞い上がってしまったのか。それとも、この厳ついアリエルパパに怖じ気づいたのか。いずれにしても走って逃げ出すとは、小心者のヘバらしかった。
 それからアリエルがティーセットと昼食の余ったポテトサラダを持ってきて、おやつの時間となった。そこには父と娘と、娘の友達の3人、他愛のない会話と普通のおやつの時間があった。

 

 

「シュトラセラト?」
ポテトサラダに塩を少々、レタスでくるんだのを頬張りながらアイリは聞き返した。昼食を取った二人に比べて、よく食べる。野菜スティックもアトボンが数本つまんだくらいで、食卓はアイリの独壇場だった。
「ええ」
紅茶のカップを啜りながらアリエルが答えた。
 シュトラセラトは古都よりも遥か南にある港街である。ブルンネンシュティグに都が置かれる前の首都だから、正式にはこちらが「古都」である。ブルンネンシュティグとの間には険艱なエルベルグ山脈があり、それ貫くテレット・トンネルにも凶悪なモンスターが住み着いてしまったので、徒歩で往来するのは不可能に近かった。そこがアリエルの故郷なのだという。
「故郷って言っても2才の時に離れたから、記憶はないんです。生まれたってだけ」
ティーカップを静かにソーサーに置いた。
「でも、いつか……行ってみたいかな…………」
アイリは出身も古都だし、シュトラセラトにも行ったことはないから、アリエルの「郷愁」に対して何ら気の利いた掛ける言葉も持たない。だからその時、会話の傍ら、父の瞳に穏やかな光が湛えられたのことに気づくこともなかった。

 

 

「さて、と……」
おやつの時間を十分に堪能したアイリは、そろそろ重い腰を上げなければならなかった。
「暗くなると墓地は危険だから、その前に帰りなさい」
言われなくても誰でも分かることだが、これはアトボンなりの心配りだった。それはアイリも多少酌み取ったが、そもそも日が落ちたら指輪の捜索などできないし、お化け嫌いなアイリが暗い墓地に一人でいられるはずがなかった。
「ごちそうさま! 行ってくるよ〜」
快活に走ってアイリは行ってしまった。
 「邪魔になるから」と言って預かったボクサーバッグを両手に、アリエルはいつもの親子二人の食事にはないにぎやかさが身に沁みていた。エネルギッシュで生命力溢れるアイリは、一緒にいるだけで人を元気づけてくれる。本当に素敵な子だなと思った。父は静かに紅茶を啜っていた。

 

 

 太陽はいつの間にかほんのり赤みがかった光線を大地に投げかけている。
 食事を摂ったこと自体は良かったが、さっきの休憩のせいで一日中動き回った疲労のツケがやってきて、体が重く感じられる。残りの捜索範囲からいっても、日暮れまでに調べ終えるのは難しかった。そもそも全部調べ終えたとて、指輪が見つかりそうな気配は全く感じられなかった。相変わらず様々な条件はアイリのモチベーションを低下させる傾向にあったが、楽しいおやつの時間を提供してくれた親子に、報いたい想いがある。「タダ飯は食うまい」と思う。
 だが――――――その時は突然やってきた。
 諦めたり投げ出したくなったりするのを「もうすぐ日が暮れるから」と治めて、気持ちを奮い起こそうとするアイリ。ふと右足に「何か」纏わりついて煩わしかったから、足を乱暴に振って引き剥がした。「もう、なんだよー」イラッとしながら振り解いたモノを確認する――――――それは「手」だった。土の中から「手」が生えていた。ボコボコと大地が窪み、「手」は見る見るその全貌を顕にしていく。気がつけば、目の前に、生ける屍「リビングデッド」が蹌踉めき立っていた。あまりの驚嘆は人に叫びすら忘れさせるのか、アイリが悲鳴を発するのに刹那の時間を要した。ようやくして声が喉まで出かかった時、見開かれた瞳孔は"それ"を発見した。ゾンビの崩れた右手人差し指に、鈍く光る銀の指輪を。
 疲労や倦怠感、さっきまで心を占めていたものはすっかり吹き飛んだ。今日一日持ち歩いた木の棒を固く握り、アイリは力を振り絞って踊りかかった。
 グハァァァァァ……。
 低くくぐもった唸り声を上げて蹌踉めきながら、ゾンビはゆっくり、だが確かに、こちらへ躙り寄ってくる。屍体だけに体躯は人間と同等だが、動きはコボルトに比べれば鈍重だ。距離を保って棒を振るえば、さしたる危険もなく叩き潰せると思えた。
 アイリは渾身の一撃をゾンビに叩き込む!
 だが。
 力いっぱいの攻撃を加えたというのに、ゾンビは怯む様子もない。
(もっと、か)
もっと攻撃を重ねてやれば――――一発で効かないなら、効くまで攻撃、しつづけるだけだ。
 と、アイリが何度目かの打撃を加えた時――――――間合い近くまで踏み込んできたゾンビは、突然そこから、目を見張る急速度でアイリに襲いかかってきた。
「グワァァアアア!」
 慌てて後方に仰け反る! ――――辛うじて、躱す。
 ゾンビは崩れた体勢をよろよろと立て直し、徐に向きを変える。それからまた、こっちに向かい始めた……。
(…………あぶなかった……)
 攻撃ばかりに気を取られてはダメだ。ちゃんと安全な距離で戦わなきゃ……。
(2発までだ)
 ちゃんと間をもって打ち込めば、3発叩き込める。だが今のような奇襲があるとなると、3発目はきつい。安全に考えるなら、2発ずつ撃ち込むのがいい。そう考えを改めて、アイリはゾンビを迎え撃った。
 しかし。
 甘かった。
 さっきから攻撃の手は休まず続けている。アイリは木の棒を振るって、近づかれる前に距離を取って、打ち込んで、また距離を取って…………ひたすら、これを繰り返した。しかし、それでもゾンビは怯むことなく何度も、何度でも向かってくる。痛みを感じず、恐怖も知らず、ただ人肉を欲するのか、唸り声を上げて前に進むのを止めようとしない。
 逆にアイリの息が上がってきた。もう何発、打撃を加えただろうか。それでもゾンビは一向に効いてる素振りも見せない。焦りが生じた。肉体も精神も、追い詰められていた。もし一度でも逃げ損なうようなことがあったとしたら! ……捕まって、地面に引き倒されて、そのまま…………。
(考えるな!)
 そんなこと考えちゃダメだ。もっと気持ちを鎮めて…………心を開いて…………。
(……!!)
 どこかで聞いたセリフだった。
「クレインさん。もっと気持ちを鎮めて。心を開いて…………」

 

 

「クレインさん、起きてますか!!」
 ある日の学校でのことだった。
 午後の授業、お昼を食べたら眠くなって、授業が退屈だったから、丁度いいやと思って…………。
(おいアイリ! やべえよ。ハイデルフィア、超キレてんぞ!)
 後ろの男子が小声で教えてくれた。
 ハイデルフィアとは魔法学の女教師だった。とてつもなく太った巨体に、偉そうに尖った眼鏡。髪は赤いゴムで一つに纏めて頭の上でお団子を作り、いつも特注の紫のワンピースを着ていた。
 大体、教師たちの性格は学科ごとに決まった傾向がある。数学教師は根暗だったり、理科は変人、語学は偏屈者だらけ、といったような……。で、魔法学の教師というのは、自分たちの専攻を「最も世の中に貢献している学問」という自負があるのか、大抵偉そうだったり、他人を小馬鹿にしたところがあるような人が多い。ハイデルフィアは典型的な魔法学教師だった。
「クレインさん!」
自分に確実な正義があるとなると、途端に態度が高圧的になる。
「はあい」
それが分かってるだけに、アイリの対応も頑なになる。ハイデルフィアは続ける。
「いいですか! 魔法学とは……」
魔法学とは名前の通り「魔法」を学習する学問である。「魔法」とは自然界に存在する「元素」をコントロールする力。主に火・水・風・大地の四大元素(六大元素と言う場合は、これに「光・闇」を加える)を操り、それらを具現化したり、物質に加えて強化したり、変化させたりする。テレポーターや魔法通信など、社会生活の中にも様々な魔法が組み込まれており、その可能性は無限大である。きちんと学習して身に付けておいて損はない――――というのがハイデルフィアの説法である。
 この日は授業は初歩的な魔法実験で、「元素感応紙」を用いて魔法力を実際に発動させてみる、という内容だった。俗に「感応紙」と呼ばれるこの紙は非常に薄く、魔力が伝達し易い素材でできている。普通はロール状に纏められている。この紙をただ持っただけでは、当然重力の影響で下に垂れてしまう。しかし、魔力を伝達させると、重力に逆らって真っ直ぐ立たせることができる。それが今日の魔法実験だった。直立させられる長さによって、施行者の魔法の力量がわかるのである。
「じゃ、せっかくだから、クレインさんにやってもらいましょうかね〜」
「ええー」
 初心者ならば資質にもよるが0〜30cmが相場である。きちんと学べば卒業までには100cmくらい立たせる者も出てくる。
 言われた通り、アイリも一生懸命念じてみた。………………が、立たなかった。
 周りからは茶化したり、失笑の声が聞こえる。
(才能ないな〜)
「クレインさん。もっと気持ちを鎮めて。心を開いて。元素の流れを感じたら……その声に耳を傾けて…………」
 ある程度魔法学を修得した者が口にする「元素の声に耳を傾ける」という言葉がある。魔力を行使できるようになった者が意識的に行う作用、そのニュアンスを言葉で表すと「元素の声に耳を傾ける」となるのだという。ただこれは魔法使い同士の間で通る慣用句みたいなもので、魔法を使えない者にとっては全く要領を得ない話である。魔法の上達のコツというよりは、上達の証明のようなもので、本来は初心者にこれを説明したところで、それで魔法が発動させられるという類のものではなかった。
「おお!」
 一同から驚きの声が上がった。アイリの感応紙が、重力の束縛を跳ね返して立ち上がったのである。渡された用紙は30cm程度だったが、その全てに魔法力が行き届いていた。
「クレインさん! すごいですよ」みんなの歓声に被せるように女教師が言った。
 ハイデルフィアはあんま好きじゃないが、誉められるのは悪い気はしない。
(へ〜〜。これが魔法か…………)
 それから数日後のことである。
 職員室の扉をけたたましく開けて一人の女子生徒が飛び込んできた。
「ハイデルフィア先生! 大変です」
女子生徒に導かれるまま教室にやってくると、何やらがやがやと騒がしい。男子が机の上に座ったり、女子が人垣をつくったりして、何事かに夢中になって騒いでいる。天井にピンか何かで止めた感応紙がぶら下がっているのが見えた。その下にアイリがいる。…………どうやら、感応紙(おそらく実験室から失敬してきて)で遊んでいて、周りの生徒はそれを煽って楽しんでいるようだった。
(けしからないことだわ…………)
ハイデルフィアが叱りつけるために声を張り裂けようとした瞬間――――――――彼女は気づいた。――――――ピンなどで止められていたのではない。感応紙はアイリの手に支えられ、そこから立ち上って、天井にまで届いていたのを。

 

 

 あの感覚………………そうだ。
 この棒に魔力を込めて……それで一撃加えたら…………。
 アイリは十分に距離を取った。それから呼気を整えて、念じた。
(気持ちを鎮めろ…………心を開け………………………………元素たちよ………………)
 体の中に"それ"が集まり、巡ってくるのがわかる。それらを下っ腹のあたりで旋回させてやると、次第に形が安定してくる。安定したそれらを、右手に送り、木の棒に伝わせて、取り込ませる。余剰分を左手から再び体内に戻し、また旋回させて、右手に送る。これを繰り返す………………。棒に元素が充実してくると、イメージを思い描く。「もっと鋭く…………もっと鋭く………………」
 集めた元素の輝きでアイリの瞳が山吹色に燃えていた。
(充分だ…………)
 アイリの魔力によって元素を漲らせた木の棒は、今や穂先の鋭い魔法の槍と化した。あとはぶち込むだけ……。
 無意識の内にアイリは構えていた。棒として振り回していたさっきまでは、左手で棒の端を持って引き手とし、棒の中間を持つ右手を力点にしていた。今、棒の端を持つ右手は頭上に掲げ、左手は胸の高さで添えるだけ。半身で構え、余計な力は抜き、指の力は槍の姿勢を維持する最低限。全身の力は重心となる足の爪先、左に三、右に七……。
(引き付けろ。ぎりぎりまで)
「グァァアアア……」
唸り声をあげて迫るゾンビが、その距離に足を踏み入れた瞬間!! ――――――――アイリの山吹色の瞳が光った。
 槍を引き付け、左足を踏み込み、同時に、槍を左指の輪にくぐらせる。捻じ込みながら梃子の原理で下から上へ。右膝は中に絞り、左膝を開き、その回転を腰から上半身、上半身から右手、右手から切っ先まで連動させて、一気に突き上げる! アイリの全身の捻りを加えられた魔法の槍は巨大な錐の刃となって、生ける屍に襲いかかった。
 全体重を槍の捻りに預けたアイリは、槍が対象を貫く衝撃にバランスを崩して右に転げた。咄嗟に半身を起こして、渾身の一撃の行方を見遣る。
 槍は確実に相手の胸板を貫き、ゾンビは串刺しになっていた。今まで何をしても動じなかったゾンビが、がくがくとその身を激しく震わせている。一瞬、槍の突き刺さった箇所から、輝く光の泡のようなものが溢れて見えた。
「カランカラン……」
 乾いた音を立てて、木の棒は地面に転がった。
 気がつくと光の泡はなく、ゾンビもそこにはいない。ただ後には堆く積もった灰と土塊があるだけである。その脇に酸化して黒ずんだ指輪が落ちていた。

 

 

 信じられないといった顔で迎えた後、アトボンは指輪を磨いてくれた。アリエルは夕食の買い出しに出ていていなかった。
 液体クリーナーに漬けて研磨すると、真っ黒だった指輪が嘘みたいに新品に生まれ変わり、ピカピカの銀の光沢を放っていた。
「これをポラックに渡しておやり」
預けてたボクサーバッグを受け取り、アイリが帰ろうとすると、
「さっきは『人助けごっこ』なぞ言って、すまなかったな」
「いやあ」
大の大人のアトボンがアイリのような小娘にその非を詫びている。相手が誰とか関係なく、礼儀が正しく行われるのはいいことだと思った。
「またいつでも遊びにきなさい。その方がアリエルも喜ぶから」
それは先程のおやつの時間、いつもよりも明るい表情を見せた娘に配慮した親心だったのだろうか。それとも、健康的で何事にも明るいアイリといると元気を分けて貰えるアトボン自身の願望だろうか。あるいはその両方なのか、わからない。その答えを知るのは唯、この厳めしい父親一人である。

 

 

 ポラックの家に着くころはもう夕焼けだった。ポラックは驚きの歓声をあげた。
「おおおお! すげえなー。良く見つけたなー。俺なんか諦めてたってのに」
あんまり何回も誉められて照れくさい。ポラックはまじまじと指輪を見つめている。
「きっと両親も喜ぶよ。ありがとうな…………そうだ! 待ってろ」
ポラックは家の奥に何か取りに行った。
「え? なにこれ」
「受け取ってくれよ」
渡されたのは現金。5,000ゴールドだった。そりゃあお金はほしいけど、さすがにこれは……。
「昼間に言った、冒険家が要求した額なんだ。ガキの頃の俺には大金だったさー」
「こんなつもりじゃ……」
「お前が代わりに取ってきてくれたんだぜ? 受け取る資格はあるだろう。冒険家なら働いた分の報酬は貰うもんだ」
その意に感謝して、アイリは報酬を受け取った。
 アイリが出て行くと、それを見送りながらポラックは、再び指輪を見た。
 見つけてきてくれた指輪は、形見の指輪とは少し形が違っていた。大昔に失くした指輪など腐蝕して、原型をとどめているかどうかもわからない。冷静に考えて、きっと、もう、見つからないものだと思っている。
 でも、これで良かったのだ、とポラックは思う。ポラックは自分の生まれ育ったこの街が好きだった。住んでる人はみんな、口は悪いが気のいい奴が多くて。でも、それでも世の中には悲しみが溢れている。両親がそうであったように、人生という長い道のりは中途の挫折を余儀なくされることも珍しいことではない。けれど、悲しい出来事が多いからこそ、楽しいことや嬉しいことは大事なのだと思う。…………今日出会った奴なんか、大昔の人の思い出のために、一日中探し回って、形見の指輪を見つけようとしてくれた。この街にそうゆう奴が一人でもいてくれることが指輪より何より、価値のあることなのだと思う。だからきっと。両親も喜んでいてくれるに違いなかった。

 

 

 街を夕闇が包もうとしていた。家路を急ぐアイリの周りに一羽のハトがまとわりついて離れない。
「お前、どうしたの?」
左腕を差し出すとそこに留まった。
「ん?」
伝書鳩だ。足に小さな筒を付けている。中には書簡もあった。
「あたし宛……かな?」
 バサバサバサバサッ……。
 書簡を抜き取るとハトは行ってしまった。
 中身を確認すると、そこにはこう書かれていた。

 

 

「こんにちは! 冒険家の皆さん。
私はブルンネンシュティグの八選国会議員‘ブローム’の秘書である‘ロングッシュ’です。
近頃、ゴドム共和国には『RED STONE』に関する様々なうわさがあふれています。
そこで、我が議員様は、ゴドム共和国に広がっている『RED STONE』に関する風聞を、来たる定期国会の集会時に提出する予定です。
この手紙を受けた冒険家様に限り、これに関わるプロジェクトに参加する資格が与えられます。手紙を受け取った冒険家様は下記日時にブルンネンシュティグ国会議事堂内事務室にいる私を訪ねて来てください」

 

 

 どうも適当に配ってるチラシみたいなものかな?
 見ると日程はいくつかあって、最初は明日の10時、次のは再来週の10時……とある。
 まあ、どうせ明日も暇だし、行ってみるかな〜。
 そんなことよりアイリは腹が減っていた。一日中あれだけ動き回ったのだから、仕方がない。
 ハンバーグが食べたいな〜。
 そう思ってパパにテレパシーを送った。家に帰って別のおかずだったら怒ってやるつもりなのだ。
(……あ!)
 そういやあたし、パパとケンカしてなかったっけか?
 そうだ、今朝、家出してきたんだっけ!
 ……………………。
(あああああああああああ)
 ハンバーグの夢は一瞬で潰えた。しかも泊まるとこもなかった。
 少ないお小遣いを泣く泣く叩いて、この日は宿屋で一晩明かした。
 ポラックの5,000Gがなかったらどうするつもりだったのか、それは作者も知らない。

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