第2章 家出少女アイリ

 眠っているわけではなかった。これからどうしようか思案を巡らしているのだ。ただ、余りのどうしようもなさに途方に暮れている。瞳を閉じていても、かえって意識ばかりがはっきりして頭の中に重くのしかかってくる。勢いで飛び出しては来たものの、特に何の当てもないのだった。
 アイリ・クレイン16才。古都ブルンネンシュテイグ中流階級出身。家は西部商業区にある。父アルフレッド、母ソフィアの間に生まれた二人姉妹の長女で、両親の愛情を一身に受け、明るく元気にすくすくと育った。5才の時に母を亡くし、それからは父の男手一つで養われてきた。容姿は母の美貌を受け継いだが内面は父親似で、親子そろって陽気なおかげで、家庭はいつもにぎわっていた。運動神経が飛びぬけて良く、幼い頃はかけっこや鬼ごっこ、ボール当てなどをしても男子に負けることがなかった。男の子とケンカしては、泣かして帰ってくることもしばしばあった。近所の幼馴染みに男子が多かったせいで、彼らとつるんで遊ぶことが多かったが、グループの中でも親分肌で、みんなを率いては色んな遊びや悪戯ばかりしていた。中でも、国会議事堂の石壁にペンキで落書きをしたのは指折りの所業である。その後先生や親たちにこっぴどく叱られてみんなで一緒になってわんわん泣いたことは、今でも苦い記憶となって残っている。活発で行動的な性格の反面、知性においては両親のどちらからも才を授からなかったようで、スクールの成績はいつも残念なものとなっている。
 スクールは現在、春休み。アイリの学園生活もあと二ヶ年となった。この学年にもなるとホームルームにはちらほらと空席が目立つようになる。進路を決めた者が出てくるからだ。農家商家職人の家など、家業を継ぐ者はそちらでの修行に入るし、進学を希望する者は在宅学習を専らとする。大学への試験は年二回実施され、それに受かれば晴れてキャピタルカレッジ(通称「首都大」)に通うこととなる。公務員などへの就職にも有利になるし、首都大出身者は世間体も大分良い。また、科学者や法曹家など、種々の学問に従事するインテリゲンツィアの卵たちは受験は行わず、今のうちから教授に就いて特別教室に入り、教授推薦を受けて大学へ進む。彼ら進路を定めた者たちは籍は置いてあるものの平時は出校せず、式、祭典に顔を出すばかりである。そういった折に、久しぶりに会って外で揉まれて一回り成長した姿など見せると、在学者たちの進路への気運も否応なしに高まるものである。
 アイリも将来の進路を考えなければならない年頃だったが、特になりたいものも見つからず、それどころかまだまだ遊び足りない彼女は、貴重なる春休みを放蕩と謳歌していた。
 そんな彼女を見兼ねていたのが、父アルフレッドである。目に入れても痛くない可愛い娘。蝶よ花よと育ててしまったが、一体この子はどんな将来が相応しいだろうか、実の父にも判りかねる。興味を持った遊びなどには人並み外れた集中力を発揮するが、学校の勉強のような大事なことには一向に興味を示さない。落ち着きがなくて飽きっぽいから、習い事などやらせてみてもすぐに投げ出してしまう。こんなんで厳しい競争社会に勤まるだろうか。多少強引でも幸福の鋳型に当てはめてやった方が、この子は人生の迷子にならずに済むのかもしれない……。
 そう考えたアルフはあちこち伝手を辿って、娘の「幸せ」を手繰り寄せようと画策した。腕のいい庭師として仕事も人柄も評判の良かった彼は、貴族からブルーナーまで古都中に顔が利くのであった。
 アルフが考えた手段、それは「お見合い」だった。本人が望む望まずと関わらず、枠に当てはめてやれば意外と人間、何とかなるものである。気立ては悪くない子だし、案外良き妻良き母となって立派な家庭を築くかもしれない。
 そんな父親の楽観的な目論見によって、三ヶ月ほど前から縁談を持ちかけられること幾数回。父親からの執拗な要請に、アイリは終始防戦一方となっていた。今日もアイリが朝食のパンにバターを塗っていたところ、陽気な父の声は遠慮のかけらもなく、アイリの心のもっとも触れてほしくない部分にずかずかと踏み込んできた。
「アイリ〜〜〜! 昨夜な、お父さんの知り合いで、またいい人が見つかったぞ!」
朝一でこの話題か、とさすがのアイリもうんざりする。
「下流貴族の家でな。年頃の倅がいるんだが、そろそろ息子に身を固めて貰いたいって言っててな。じゃあウチにも娘がいるから丁度いいじゃないかってな……」
「やめてよ〜パパ。アイリはお見合いなんてしないったら」
「下級貴族と言ってもな。お父さんが出来た人で、色々と影響力のある人だしあの家はこれから伸びると思うんだ。アイリのこともきっと力になってくれると思うんだ」
(人の話全然聞いてないな……)
アイリもよく学校の先生に「人の話を聞きなさい」と注意されるが、どうやらこれは遺伝らしい。
「絶対、将来、裕福な生活ができるぞ? ほらとりあえず画だけでも見なさい。今度こそお前も気に入るはずだから」
当の本人は善意以外の何者でもないのだから手に負えない。一応、肖像画だけは確認してしまうアイリ。それを見て思う。
(パパ…………せめてイケメンでお願い……)
 強引に縁談を迫る父と、断固として拒む娘。初めのうちはいつもの押し問答だったが、親子そろって熱しやすい性格。この日の口論は次第に熱を帯びてきた。
「アイリ、何度言ったらわかるんだ。たまにはパパのゆうことも聞きなさい!」
「イヤなものはイヤ」
「そんな聞き分けのない子はパパの子じゃないぞ」
「アイリはママの子だもん」
「母さんはそんなワガママ言わないぞ」
屁理屈も減らず口も達者な似たもの親子。一度感情的になると、収拾がつかなくなる。
「もううっさい! パパのバカっ! 分からず屋!!」
「なんだとお〜〜?! バカってゆーやつがバカだ!!」
罵り合いの挙句、遂に頭に血が上ってしまい、
「このドラ娘! 家から出て行け!!」
「言われなくっても出ていくもん!」
「この馬鹿娘がっ!」
「バカってゆう人がバカなんでしょっ!」
売り言葉に買い言葉。こうしてすっかり頭にきてしまったアイリは、簡単な身支度だけで家を飛び出してしまったのだった。

 

 

 我ながら単細胞なことだなとアイリは思う。けれども父も父である。もう少しわかってくれてもよさそうなのに……。
 100年前ならいざ知らず、この時代の平均的な女性の願望としては、自由恋愛が尊重される。「お見合い」はアイリもイヤだった。大体クラスのみんなの間でも、背が高くて頭が良くてスポーツが得意で、優しくてユーモアのある、そんな彼氏をモノにできたら「勝ち組」なのだ。誰かに勝手に相手を決められたら、そうなる機会を失ってしまうし、第一自分の運命を他人に決められるのはイヤなのだ。たとえ親であったとしても。
 自分の運命は自分で決めたい……。
 そんな耳当たりのいい言葉を胸に秘めていても、それに伴うほどの覚悟も行動も特にはしてない。ただ「どっかの素敵なカレシが声でもかけてきてくれないかなあ」程度のことを考えているだけである。それより何より当面何をすべきか、それすら定まらない。とにかくしばらく家になんか帰ってやるものか。そのうちパパも頭を冷やすだろう。……でも、他に行くとこなんてあるかなあ。友達の家にいってもいいんだけど…………家を追い出されたなんて、ちょっとカッコ悪いかなあ……。
 学校の友達のことを思い浮かべると、こんな時にまで考えたくもない悩みが浮かび上がってきた。進路のことである。春休みに入る前にも、クラスのみんなと進路について話したりしたものである。実家の花屋を継ぐ子、進学する子、在学はするが卒業したら結婚して家庭に入るって子もいた。自分の未来をうまく決められた人と、まだ決め兼ねている子も多少の目安はついているようで、彼女たちが色めき立って話す様子を、アイリは他人事のように聞いていた。そんなアイリにとっても運命はもはや逃れられるものではなく、時間は差し迫ってアイリに決断を求めてきていた。確かに父はこんな自分の身を心配して、お見合いなんて強引な解決策を取ろうとしたのだった。自分さえしっかりしていれば、こんなことにはならなかったはずなのだ。しかし。
(進路、進路って言ってもなあ…………私は一体、何になりたいんだろう…………)
 アイリなりに考えてはいるのである。けれど、思考は何度も何度も同じところを回って前へは進まない。やらなければいけないってことは分かっていても、やりたいこと、それが見つからない。色々な未来を想い描いてもみるが、すべては決して当てはまらないジグソーパズルのように、頭の中に浮かんできても、一瞬で退けられてしまう。…………よく考えたら、そもそもジグソーパズルが得意じゃなかった。
 気がつくと噴水周りを徘徊しているハトが一羽、アイリの寝転ぶベンチまでやってきた。
「お前はいいねえ……。翼があって、どこへでも飛んで行けて……」
などと呟いてみるが、そんなしおらしいセリフが似合うような玉ではない。
 半身を返して、慈しもうと手を伸ばした瞬間。
 バサバサバサッ。
 翼をはためかせ、ハトは噴水の向こうの方へ行ってしまった。
(はあ……)
 深い息をひとつ吐いた。
 こうしていても仕方がない。気を取り直してアイリはとりあえず街を散策することにした。
 ごちゃごちゃ考えるのは止めだ。こんな私でもいつかきっと幸せになれるはず…………。いつかきっと、白馬に乗った王子様がやってきて、私をお城へ連れてってくれ……………………ないかなあ。

 

 

 アイリは川沿いを歩いてゆく。街中を流れる整備された川の水は綺麗に澄み切って、水面は太陽の光を浴びてキラキラ輝きながら揺れている。その眩しいきらめきを目をチカチカさせながら眺めるのが、アイリは好きだった。アイリもアッシュブロンドの髪に太陽の光をたくさん蓄えて鮮やかな光沢を彩りながら、明るいライトブラウンの瞳をよく透き通らせて、石畳の上を遊歩する。ふと一陣の風が吹き、街路樹は青々と生い茂った枝葉を翻した。それは木々の小枝が辺り一帯に春の香気を撒き散らしたかのようであった。どこか遠くの家からかすかにバイオリンの音色が聞こえてくる。その曲に耳を澄ませば………………あれは『建国記念祭』だ。風が流れるような緩やかな弦楽器の調べに、アイリも足元が心なし軽くなったような気がする。

 

 

 …………美女…………コンテスト………………優勝………………
 確かにそう、聞こえた。
 沸き返る街の雑踏の中から、アイリの研ぎ澄まされた聴覚は、確実にそれを聞き分けた。
 イケメン好き、イタズラ好き、勉強嫌い、怠け者……。アイリは体内に何匹もの悪い「蟲」を飼っている。この瞬間、その内の一匹が俄かに慌しく蠢き始めた。
 声のした方向には、アイリより少しばかり年上の若い男女が4人、心持ち重そうな雰囲気で何かを話し合っている。年齢やファッション、佇まいからだけでも、彼らが首都大に通う学生仲間らしいことが判る。4人の男女はそれぞれ、クライス、ポラック、エニ、クラカといった。
 アイリの視線に気づいた男、クライスが最初に声をかけてきた。
「どうしたんだい、坊や?」
(坊や?! こ、こ、こんな乙女を捕まえて……!)
よく男の子に間違えられるクセに、その都度いちいちムキになるアイリ。
「あら、この子は女の子よ」
温和な笑顔を浮かべてクラカは言った。その笑顔には初対面の相手を安心させるような朗らかさがある。2、3才年下のアイリからすれば、良きお姉さんといった感じだ。ほのかに香水のいい匂いがした。
「美女コンテストがどうかしたんですか?」
アイリの問いにクラカは微笑みながら答えた。
「コンテストがどうしたってわけじゃないのよ。ただ、それに優勝したアリエルって娘がいてね。……彼女、ちょっと今、困ったことになってて…………」
(アリエル…………困ったこと…………?)
途中で思いついたかのように、クラカは尋ねた。
「あ、ひょっとしてあなた。コンテストに出たかったの?」
思いもよらなかった質問を浴びてアイリはどぎまぎした。
「お嬢ちゃんも出られたら、いいところまでいけたかもね?」
クラカの笑顔は優しかった。それだけにアイリも縮こまってしまう。
「い、いや…………そんなわけじゃないです……」
 コンテストは古都で一番の美女を決めるミス・コンだった。美しかった母親の血を継いでるだけに、アイリも整った顔立ちをしていて「口さえ閉じていれば」コンテストもそこそこのところまでいくかもしれない。クラカもそう思って、見当違いな質問をしたのである。しかし、そんななりをアイリをよく知る学校の連中が見たらどう思うだろうか。アイリの普段の生活態度といったら、ひどいものである。例えば、女の子なのに授業中に居眠りはするし、宿題はやってこないし忘れ物は多いし、机やロッカーはだらしなく散らかっているし、清掃用具は遊んで壊すし、絶対に混ぜてはいけない魔法薬を調合してしまうし…………。とにかく、素行の悪さを挙げたら枚挙に遑がない。そんな彼女がお澄ましして、ドレスなんかでも着飾った日には………………学校中の笑い者となること請け合いである。そんな事態は避けなければならない。そもそも、アイリは常々自分のことには余り関心がなかった。今も興味の対象は、あくまでもコンテストの優勝者に対して向けられている。
 もう一人の女性、エニが話し始めた。
「アリエルったら本当にいい娘なのよ? 見た目だけじゃなくてね。体の悪いお父さんを誠心誠意込めてお世話しているの。ホントは普通の子みたいに、もっと遊び歩いたりしたいだろうにね」
狐のような顔立ちで、ちょっとつんとしたところのある女性だ。そんな彼女が同姓であるアリエルを褒めている様子は、なんだか微笑ましいような感じがする。フローラルの香水の匂いが、やや強い。
(ん? ……「悪いお父さんを誠心誠意込めて世話してる」? …………どっかの親子にそっくりだね!)
「お嬢はホントに素敵だよ。素敵すぎてそこらの男共、恥ずかしがって声かけることすらできないくらい、な?」
4人目の男はポラックと言った。失礼にも先程アイリを坊や呼ばわりしたクライスに比べれば、多少まともそうに見える。気さくで感じの良い兄ちゃん、といった感じだ。
 それにしても、「アリエル」…………か。
 生来、好奇心の強すぎるアイリ。彼女の中の衝動は抑え切れないものとなりつつあった。
「アリエルさんには、どこに行ったら会えますか?」
「彼女は街の西口を出て、すぐの所に住んでいるわ。けど、今はちょっと問題があって……」
「ありがとう!」
クラカの言葉を最後まで聞くことなく、アイリは駆け出していた。もううずうずして、じっとなんかしていられない。噂のアリエル嬢がどんなものか、どうしても一目拝みたくなった。このどうしようもない性癖を止めることなど誰にもできっこなんかない。
 アイリ・クレイン16才。古都ブルンネンシュティグ中流階級の出身。「イケメン好き」という、この時代の平均的な女性としてはありふれた趣味の持ち主であるとともに、「美少女も好き」という、この時代の平均的な女性とは若干かけ離れた異質な嗜好をも持ち合わせた、うら若き乙女である。

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