第12章 戦士たちの休日(後編)

 「小羊たちの水場」
店内には仄暗いランプの灯りが、明るくはなく暗すぎることもなく、柱やボトル棚の陰翳を浮かび上がらせ、落ち着いた雰囲気をかもし出していた。4人掛けのローズウッドのテーブルに、ヴァリーは座っていた。
「おう! どうした‥‥?」
アイリは「やれやれ」と言った感じで、コートを着たまま、ヴァリーの向かいの席に座った。
「れもさんが、料理できたから、呼んでこいって」
席に着くと、ブラック塗装のテーブルの木目の鮮やかさが目についた。
「おお〜、そうかそうか」
ヴァリーは細身のタンブラーの中の黒い液体を少量、咽に通して、革製のコースターに置いた。
「しかし、よくここがわかったな〜〜」
「だって、あんた、‥‥‥‥この店しかこないじゃん!」
少し間を置き、
「そりゃ〜そうか〜」
笑った。
 店内には他に2、3人の客しかおらず、ヴァリーの笑い声はよく響いた。それがやむと、辺りに静寂が広がっていった。
「なんでこの店なの?」
古都には他にも酒場はたくさんある。もっと広くて大勢の人が集まれるような大衆酒場の方が、冒険家にとっては都合がいい。人が多ければ情報が行き交うし、浴びるように飲むなら予算の上でも。でもヴァリーが通うのは、この店だった。「それはな‥‥‥」
「シュヴァルツはここが一番うまい!」
そういって飲み干したタンブラーを、小気味のいい音を立ててテーブルに置いた。カウンター越しにマスターらしき人が洗い物をしていた。
「あと、俺はこうゆう場所の方が落ち着くんだ」
「?」
「大勢でワイワイやるのも楽しいんだけどな‥‥」
「‥‥‥うん」
「楽しいのと、落ち着くのは、ちょっと違う。‥‥‥‥育ちのせいかな?」
親の顔も名前も知らない。少年は孤独を抱え続けて、大人になった。ずっとそれが当たり前だったから、それがいまや最も気の休まる場所となった。孤独は少年の揺り籠だった。
「ってか、飲んでるの?」
「だめ?」
と言ってブルーチーズを千切る。
「ったく、これかられもさんがゴチソウしてくれるってのに」
「はははっ。まあそういうな」
笑い声がまた、店内を響き渡った。
「ねえ」
「うん?」
その質問は、目に見えない一歩だったかもしれない。
「さっき、川にいたでしょ?」
ヴァリーはチーズを食べながら、藍色の瞳を大きくして、アイリを見た。
「なんだ〜? 見てたのか〜〜」
アイリは小さく笑う。
「気づいたんなら、声かけてくれればよかったのに」
指についたチーズ舐めながら、文句言う。
「え? だって‥‥‥、なんかさ‥‥‥‥‥」
静かな、穏やかな時間が在った。
「ほら。一人が好きなんでしょ?」
二人、笑った。

 

 

 レモンが食卓を整えていると、玄関からなにやら話し声や物音がする。‥‥‥二人が帰ってきたのだ。
「おかえり〜〜」
どかっと椅子に体を投げ出して、ため息まじりにアイリが言う。
「ね〜〜れもさん、聞いてよ〜〜」
「うん?」
聞きながらレモンは、食器を並べている。
「ヴァリさんったらさ。先に、一人で飲んでたんだよ」
「な〜〜に〜〜〜?」
(げっ!)
予想外にレモン嬢の機嫌を損ねたっぽくて、瞬間、ヴァリーはひやりとする。
「これからみんなでゴハンだってのに、一人で飲んでたの〜〜〜〜〜?」
「えっ、飲んだたって、ほんのちょこっとだよ? ‥‥‥‥軽く一杯‥‥」
「ふ〜〜〜〜〜ん」
冷たい視線が、痛々しい。
(お嬢‥‥‥‥‥手厳しいぜ‥‥‥)
そうして三人の晩餐は始まった。

 

 

「大体酒ってのは、うまいもんなのかね〜?」
食べながら、アイリが話題を投げかける。
 大人たちが旨そうに飲む「酒」というものに興味を持って、アイリとレモンはこっそりビールを買ってきたことがある。勿論、未成年(「ゴドム民法」では満18歳に達しない者)は飲酒はおろか、販売するのも禁止されている(販売者側が罰せられる)。しかし、法の網を乗り越え、禁じられた媚薬に手をのばすことは、大人たちがうまいうまいと言って飲んでいるアルコールがどういうものなのか知ることであり、それは二人が大人の階段を上る、通過儀礼として必要なことだと思っていた。
(これさえ飲めれば、今までと違った自分になれる‥‥‥‥)
(大人の女への一歩‥‥‥‥)
二人でコップにビールをついで、乾杯。‥‥‥そこにはめくるめく甘美なアルコールの世界が待っている‥‥‥‥‥‥‥はずだった。
 が、実際飲んでみると‥‥‥‥‥‥‥苦い。もっとコーラとかサイダーのような甘いものを想像していたが、ただ苦いだけで、そのうえ鉄か何か、金属みたいな臭さがある。大人たちは、これの一体どこがおいしくて、毎晩欠かさず晩酌したり、気持ちよさそうに酔っ払って大騒ぎしたりしているのか、二人には全くもって分からなかった。結局、買ってきた瓶ビールも、一本飲み終えずに捨ててしまったのだった。
「そもそもジュースとかより高いし‥‥‥、あんなまずいもん、わざわざ高い金払って飲むほどのもんかね〜〜」
それを聞いたヴァリーは、ナイフとフォークを持つ手を休めて、
「まあ、うまくないってんなら、無理して飲むほどのもんじゃないな」
ナプキンで口を拭って言った。
(ムムムッ)
てっきり、お酒のこうゆうところがうまいだのなんだの、いつものように長いうんちくがくるのかと思っていたが、アイリの言い分は吸収されてしまった。しかもその言い方が余裕たっぷりで、さも「まあ〜〜お酒はオトナの飲み物だからな〜〜。おこちゃまにはジュースで十分だな〜〜」言われてるような気がした。
「いいもん。ジュースの方がおいしいもん」
「? ‥‥‥ああ」
怒らせたような、すねられたような気がするが、なんなのかヴァリーにはよく分からない。
「あたしチューハイならのめるよ」
「でた! れもさんのチューハイ攻撃」
レモンもアイリと同様、お酒は飲めない。抵抗もないようで、コップ一杯のビールで顔を真っ赤に火照らせていた。でもいつだったか、酒場で自分でも飲めるお酒がないか探してみて、チューハイならなんとか飲めることを発見した。チューハイといっても、焼酎を大量の炭酸水と果汁で薄めてもらった特別仕様で、殆どジュースに近い。それをさも「あたしもお酒が飲める!」とばりに、鬼の首をとったように言い張るもんだから、よくアイリに茶化されている。
 それに対してヴァリーの一言。「てか未成年はお酒飲んじゃいけません」「う〜〜〜」

 

 

 

 三人でアリエルの家に遊びに行ったりもした。
「アリエル〜〜〜、材料買ってきたからヨロシク〜〜〜〜」
目当ては彼女の手料理。
「ま〜た、たくさん買ってきたのね〜〜。よ〜〜〜し! じゃあアイリ、あなたも手伝ってね!」
「ええええええーっ!!」
アイリの扱いにも慣れてきたアリエル。見慣れぬ大男の姿に気づいた。
「あら。こちらの方は?」
「どうも、レオンハルトと言います! アイリのフィアンセです!」
 え‥‥?
「ちょっ! 何言って‥‥‥‥‥もがもがも」
後ろからレモンの羽交い絞め。
「あら〜〜それはそれは」
「どうぞよろしくおねがいします」
「いえいえ、こちらこそよろしくおねがいします」
にこやかにおじぎを交わすアリエル。動じるそぶりもない。
「今日は随分デカいのがいるな」
奥からアトボンも出てきた。今日は、具合もそこそこいいらしい。
「初めまして。レオンハルトといいます」
「そんなナリじゃあ、親御さんも大変だな。食費がかさばって敵うまい」
「いえ。自分は孤児院育ちで‥‥‥親はおりません」
「!」
アトボンは少し驚いて、それから申し訳なさそうに、
「あー、そうか‥‥‥」
と呟いた。そこで会話は途切れて、少しの間ができた。
「‥‥‥‥‥でも、こんな図体なんで。代わりに、そっちに迷惑かかっちまって」
ヴァリーは苦笑いしながら言葉を継ぐ。今さら気にしていることじゃないから、気にかけさせるのはかえって申し訳ない。
「うむ‥‥‥‥ゆっくりしていきなさい‥‥」

 

 

 アリエルが料理の準備をすると、レモンはつきっ切りになっている。まだまだ勉強中のレモンは、料理の合間レシピを確認しいしい、その通りに作ることしかできないが、アリエルは本などは見ずに感覚だけでやってしまう。「あれが余ってたから使っちゃおう」「ちょっと試しにお酒いれてみよう」などのように。レモンは「料理ができる」というのはこーゆーことなんだなあ、と感心しながら、アリエルの脇をちょろちょろしていた。
 一方アイリは、最初の方こそ洗い物やら何やら、こまごまとしたことを手伝っていたが、そのうち飽きて、れもさんがいれば人手も足りてそうだから、丁度巻き割りが一段落したヴァリーとキャッチボールを始めてしまった。しながら、こんな会話をする。
「ねー!」
「ん?」
「ヴァリさんって、料理、意外と得意そうね!」
アイリは女とは思えないくらい、いい球を放る。
「よく言われんだ、それ」
「でしょ!」
ガタイがよくて割と細かいことに気が利くから、こうゆう男が作るカレーとか、豪快さの中に繊細さがあったりして、けっこうおいしそうな気がした。
「‥‥‥‥でも全くできねええ。ぐはははははっ」
だめカップルだった。

 

 

 食事を終えて、みんな寛いでいた時だった。
「どうしたのアリエル?」
何やら膝元で作業をしているようで「う〜んう〜ん」うなっていた。
「これね‥‥‥。止め具が曲がっちゃって‥‥‥」
それは花柄のブローチだった。緑や黄緑のビーズを連ねて白いラインストーンで装飾されたブローチは、キラキラしていて綺麗だった。なんとなくだけど多分、アリエルお気に入りの一品、という気がした。裏を見ると、確かに止め具が曲がっていてピンを収めることができなかった。
「ああ〜、これじゃダメね〜」
アイリも力入れて直そうとしてみたが、びくともしない。
「どれどれ? 貸してみ」
ブローチをヴァリーに渡した。こうゆう時に頼りになるのが、男である。ヴァリーならきっとうまいことやってくれる! そう期待していいところだった。が‥‥‥。

 

 「バキッ!」

ヴァリー「あっ」

一同「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 

「あっ、じゃねえべ、おま! なあにやってんだべ!!」
アイリ、北部訛りで叱る。
「あ‥‥‥あ、あたしのブローチがああああ」
歎き悲しむアリエル。レモンは年上のアリエルを抱いてよしよしする。
「うっ‥‥‥すまねえええええ」
「‥‥‥いいんだけど‥‥‥‥べつに‥‥‥‥どうせ壊れちゃってたから‥‥‥‥いいんだけど‥‥‥‥‥」
涙目のアリエル。
「れ〜〜お〜〜ん〜〜〜〜!」
レモンは女の味方。
「この、筋肉ゴリラがっっ」
「すまん、申しわけない、ごめんなさいっ!」
三段活用で謝った。
 泣いたり、怒ったり、謝ったり‥‥‥‥。ぴーぴーぎゃーぎゃーわーわー、収拾がつかない。穏やかな食後のひとときが、一瞬で修羅場に‥‥‥。
(あっ)
アイリ、ふと思い当たる。
「ね、アリエル。知り合いにね、こうゆうの得意な人いるから、今度なおしてもらえるか、頼んでみる」
防具屋のエイドゥル。かつてアイリの弓を作ってくれた男だ。彼にはあれからも時々お世話になっていた。
「だから心配しないで。‥‥‥ね?」
「うん‥‥‥。ありがとうアイリ‥‥」
指で涙をぬぐった。
「あいり様〜〜〜〜! ありがとうございます〜〜」
今度はヴァリーが、まるで高名な祈祷師に雨乞いを乞う村民ばりに、アイリの太ももにすがりついてきた。
アイリ「よるんじゃねえよ! ‥‥この、バカがっ!」
蹴散らかしてやった。
レモン「ばーか」
アリエル「バーカ」
(うえええええええええええ)

 

 

その帰り道。
「あんまレオンのこと、いぢめすぎない方がいいんじゃな〜い?」
「なんで?」
「だって‥‥‥‥‥‥未来の旦那さんだし‥‥‥」
「!!」
「よく考えたらさー」
「うん」
「レオンって、背は高いし、物知りだし話おもしろいし、運動神経だって良さそーだし‥‥‥‥‥いつだったか話してた、アイリの理想の人にピッタリじゃない?」
「ええーー?!」
その驚嘆は、離れて少し後ろからついてくるヴァリーにも聞こえた。
「イヤよあんな奴」
脊髄反射で否定する。
「なんでさー?」
「だって‥‥‥なんか情けないし‥‥」
さっきの件で、ヴァリーの株は大暴落。その後も軟調に推移している。
「こんなんだったら、昔のヴァリさんの方が良かったよー。カッコ良くって、ワイルドでさ。近づきがたくって。ロンリーウルフって感じ? ついて行きたくなっちゃう〜〜〜〜って感じ」
「昔の」とは子供の頃のヴァリーのことを言っていた。あの頃のヴァリーはどこのグループにも属さず、いつも一人だった。ケンカがずば抜けて強かった。
「今のは?」
「ついてくんなって感じ」
「あははー」
少女が二人、楽しそうに話している。
(なんの話してんだろ‥‥‥‥‥)
その後ろで、会話に入るに入れない男が一人‥‥‥。

 

 

 

「ねえー。もうじき出来るから、レオンよんできてー」
「ほーい」
夕食も三人で摂るのが普通になってきた。レモンが料理を作り、アイリがレオンを呼んでくる役割。
 黄昏が街を均しく染め上げていく中、アイリはレオンを探しに行く。
 例の店にはいなかった。アパートにも灯りはついていない。
 アイリは川辺に向かった。

 

 川沿いの道は吹きっさらしで、風が身に沁みた。アイリははやくヴァリーを拾って、暖かい部屋に帰りたい。
 川辺のベンチ。
 前と同じところ、同じように川に向かって、ハーモニカを吹いているレオンがいた。
「おーい」
アイリの声をかけると、吹くのをやめて、レオンは振り向いた。その横顔の輪郭が、川面の夕映えを浴びて暈やけていた。
「おー」
「もうゴハン、できるってー」
「そうか」
近づいていって、隣に座った。
「ねえ」
「ん?」
「そのハーモニカ‥‥‥」
何か特別なもののような気がして、アイリは尋ねてみた。
「ああ、これか‥‥」
レオンは手に持ったハーモニカを見つめて、呟いた。
「これは俺の‥‥‥宝物みたいなもんなんだ」

 

 子供の頃、学校の音楽の授業でハーモニカの時間があった。レオンはその時間が嫌で嫌で仕方なかった。
 孤児院は裕福なところではない。国からの補助も僅かで、多くは有志の寄付金で運営が成り立っている。院の子供たちは寄付金を集めるために慈善活動を行い、その対価的に院に「寄付金」が入るという、公共の福祉が課せられた(労働法に触れるため「賃金」でなく、あくまでも「寄付金」である)。
 不安定な運営資金に基づいているため、孤児院の生活水準は高くなかった。衣類は新しいものなどめったに買ってもらえず、殆どが上からのお下がりで済まされた。食事も僧か囚人が食べさせられるような精進料理みたいなもので、野菜や豆類中心。肉と言えば、毛も刈り終わった廃羊がもっぱらで、硬く臭みが酷かった。が、それでも肉はご馳走の部類だった。
 元々貴族階級の支配にあった極東部は、厳しい階級制度があり、それは経済格差や身分差別という問題を孕んでいた。そのような階級意識が蔓延る社会で、孤児院出身者は世間の風当たりも厳しく、それが原因で決まっていた婚約や就職が反故にされるというケースもあった。近年、人権団体などの働きによってそういった差別問題は改善されてはきているが、何世紀にも渡って人々を支配し続けたイデオロギーは、未だ根強いものがあった。
 そんな貧しい孤児院の暮らしの中で、学校の授業で使うハーモニカが使い回しだったのは、格別取り立てて話すまでのことではない。
 だが、少年レオンは嫌だった。
 それ以外のことは大抵、わがままは言わなかったレオン――――――院の中で彼は、彼より上の世代が少し年が離れていたので、年少者たちの中で長男的存在だった。そのため彼はお手本のように振舞わなければならず、わがままを言う側よりも、それを抑える側としての役割が強かった。
 そんなレオンでも、このハーモニカだけは許せなかったらしい。何人もの手に渡り、誰の唾液がついてるかもわからないハーモニカを好む子などいないであろうが、それ以上にこのハーモニカは少年にとって憎むべき象徴だった。
 ある日のことだった。
「お前の親、死んだんじゃないんだぜ? お前、捨てられてたんだぜ」
院の年長者の一人が言った。
(ウソだ‥‥‥‥)
「ウソなもんか! おとさんたちが話してるの聞いたんだ。おとさんがお前、拾ってきたんだぜ」
(ちがう!)
自分の聞いた話と、違う。両親は小さい頃に死んで、引き取り手がなかったからここにきた‥‥‥‥‥‥それがレオンの知っている、自分の出生だった。(‥‥‥おとさんが教えてくれたんだ‥‥‥‥)
「おとさん!」
どうしても、事実を確かめずに、いられなかった。院に帰って荷物も置かずに問い質した。ウソだと言ってほしかった。
 でも‥‥‥‥‥‥その時の‥‥‥‥おとさんの‥‥‥‥‥‥‥顔‥‥‥‥‥‥‥。
 少年は家を飛び出した。
(くそ‥‥くそ‥‥くそ‥‥‥‥)
走った。
(ち‥‥くしょう‥‥‥‥‥)
なぜだか分からない、悔し涙が滲んで、止まらなかった。
 蹴躓いて、バッグの中身が散らばった。
 通行人が見ていた。
 親切にも拾うのを手伝ってくれる婦人がいた。そんな婦人に対して、
「さわんな!」
言葉を吐き捨てた。
 ノートや筆記用具をしまって、悔しさいっぱい張り裂けそうな瞳が捉えたのは‥‥‥‥‥‥無造作に打ち捨てられた、ハーモニカだった。
 そうだ。
 いつだって、そうだった。
 他のやつらは、それが当たり前だった。服もカバンも、靴も絵の具も‥‥‥。何もしなくても、新しいのを買ってもらえるのだ‥‥‥‥‥親が買ってくれるのだ。
 少年は彼らの弁当を見た。色とりどりのおかずで溢れていた。そして‥‥‥! 彼らはそれを残した。「このおかず、すきじゃないんだよな〜〜」
 この差はなんなんだろう‥‥‥‥なんで俺は「持ってない」んだ‥‥‥。
 少年は憎んだ。お下がりの服を、つぎはぎのジーンズを、しみのついたスニーカーを。何人にも使い古されたハーモニカ。こんなに我慢してやっているのに、なぜ自分ばっかりこんな目に遭うのか。貧乏が恨めしかった。‥‥‥‥親にいてほしかった。

 

 

 誰にも肯定されることなく、人は生きてはいけない。
 誰かに必要とされたり、何かの役に立ったり‥‥‥。そうゆうことで人は、自分の存在意義を確かめている。
 そういう意味で、子供にとって、親の愛に勝るものはない。
 無償でそそがれる親の愛情を受けて、子供たちはすくすくと、強く大きく育つことができる。
 もし"それ"がなかったならば。
 それは緩慢な死――――――太陽の光を与えられなかった花のように、心は緩やかに滅びていくだろう。
 少年には"それ"がなかった。
 意図的に、捨てられた。
 「死」―――――という不可抗力なら、あきらめもついた。
 だが‥‥‥。
 経済的な理由なのか何なのか‥‥‥そんなことは少年の知るところではない。
 ただ、生まれながらに誰からも必要とされなかった自分、という認識だけが残された。
 ‥‥‥‥好きで、生まれてきたわけじゃない‥‥‥‥。
 ‥‥‥‥勝手に生んどいて、邪魔だったから捨てたのか‥‥‥‥。
 何をよすがに、生きればいいのか。
 少年の心は、人生の始まりにおいて既に、大きな負債を抱えさせられていた。

 

 

 それから、すこし経った日のこと。
 学校から帰ると、おふくろさんに呼び出された。
 別室に連れられ、他の子たちから見えないように扉を閉められたから、レオンは「ああ、なにか叱られるのか」と思った。
 おふくろさんは何も言わず、黙って紙袋を渡してきた。
「?」
 意味もわからず、中を開けた。するとそこには‥‥‥‥‥‥‥‥‥新しいハーモニカが入っていた。
 おふくろさんは言った。「いつも手伝ってくれて、すまないね‥‥」

 

 

「それが‥‥‥うれしくってな‥‥‥‥」
ヴァリーは笑って言った。その笑顔が、どこか寂しく、儚げに見えた。
「新品のハーモニカってことよりも、ちゃんと気づいてもらえたってのが‥‥‥‥‥俺はなんにも言わなかったんだけどな‥‥‥‥‥。おとさんもおっかさんも、ちゃんと見ていてくれたんだ、って‥‥‥‥」
あの日のことが、今もこの胸に残っている。ちょうど今日と同じような、こんな黄昏時のことだった。捨てられて、誰も支える者がなかった少年の心は、いつ崩れてしまってもおかしくなかった。だが、実は別なところに、それを支えてくれてる人たちがいてくれた。そして少年は、大きくなった。拗けた心を持たず、強く正しく育つことが出来た。「まあ逆に、恥ずかしい、ってのもあるけどな」
 川沿いの道は人通りも少なく、そこはまるで切り取られた空間の個室ようだった。
「だから、いつか恩返ししてやりたいって思うんだ」
アイリはその話をただ無口になって聞いている。冬の夕暮れは低く、どこまでいっても遥かだった。
「そうだな‥‥‥。俺が成功して、もっとお金を蓄えたら、子供らにうまい肉でも食わせてやりたいな!」
ハーモニカを擦りながら、言った。
「それが俺の『夢』ってやつだ」
「夢‥‥‥」
その言葉が不思議な魅力をもって、アイリの心に響いていた。ありふれていて、どこにでもある言葉だったが、こうして実感が伴って感じられるのは、初めてのことかもしれない‥‥‥。「大人にならなければ‥‥」「進路を決めなければ‥‥」未来は、ずっと自分を追い立てるようなものに感じていた。けれど、そんな風に考えなくてもいいのかもしれない。もっと「私はこうなりたい!」素朴な願いでいいのかもしれない‥‥‥‥。
「夢か‥‥‥」

 

 

 

 しんと静まり返るアパートの一室。
 朝の大気は冷ややかに、壁や床に浸み入る。
 忍び足で、花梨の床に歩を進める男が一人。
 不審者レオンハルト・ヴァリーマース。
 女人の部屋への侵入を試みる。
 いつも勢いよく行くから怒られるんだと思って。
 今日は別の方法をとってみようと考えた。
 こっそ〜〜〜〜り、ドアを開けて、二人が寝静まったベッドへ‥‥‥‥‥。
 と、そこで。
 不審な「なにか」を感じ取ったか、突然ぱっちり目覚めたレモン嬢と、ばったり目と目が合う。
レモンvsヴァリー(‥‥‥‥‥)
ヴァリーは声をひそめて言った。
(おはよ〜〜〜ございま〜す)
「どっきりかいアンタ!」
見つかってはしょーがない。開き直るヴァリーマース。
「ってかお嬢! なんでいっつもこっちで寝ているんだ(夜這いができないじゃないか)!」
「ええー?!」
素っ頓狂な声を上げる。確かにレモンの部屋は別にあり、そっちに寝るのが普通である。
「だってアイリ一人にしておくと、危険そーじゃん!」
(むう)
読まれていた。
「ってのはウソ」
いたずらっ子のように笑う。
「だって、アイリと一緒に寝るとあったかいんだもん」
「あったかい?」
「うん。‥‥ほら、ここ」
促されて、そっとアイリの背中に手を当ててみた。‥‥‥‥‥‥あたたかい‥‥‥‥‥‥‥いや‥‥‥というより、熱い。まるで幼児のような体温だ。‥‥‥‥‥‥新陳代謝が異様に活発なのだろうか‥‥‥? 病気で熱を持ってる、というわけでもないだろうし、どうしてこんなに温かいんだろうか‥‥‥‥。
(‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥まさか‥‥‥)
考えられることは一つ。
 驚いてレモンを見た。レモンはこくんと頷いた。その視線で、レオンも気づいたのだと判断できたからだ。
「元素なのか‥‥‥‥‥」
何も知らないアイリは、小さな寝息を立てて眠っている。
 「元素の声に耳を傾ける」―――――普通、元素を集めるには、意識を高め、高められた集中力のバランスをとって安定させ、その状態を維持する。狭義では、その精神的領域を「zone」と呼ぶ。心が「zone」にあって初めて自然との交感が成り、そうして元素を喚起することが出来る。
 一生魔法を使えない者(不能者)もいるし、魔法使いであっても「zone」を維持し続けるのは、高度な精神力と要すると言う。
 それを彼女は、寝ながら無意識の内に行っているのだろうか‥‥‥‥。もしくは、元素の恩恵が並外れてよく、自然と元素が対流している‥‥‥‥特異体質なのだろうか‥‥‥‥‥‥‥。
(‥‥‥まるで‥‥‥‥‥元素神の生まれ変わりのようだ‥‥‥‥‥)
ヴァリーは背中に、ぞっとするような寒気を覚えた。
 そういえば、気になったことがある。
 普通、冒険者たちは「魔法」と言い、「魔力」と言う。「彼は優れた魔法使いだ」とか、「何が起こってもすぐ対応できるよう、いつでも魔力は蓄えておけ」とか。
 でもアイリは「魔力」という言葉は使わない。
 彼女は「元素」と言う。
 「魔力」とは「元素」をコントロールして「魔法」を発動させる力のことをいうのだから、意味的には両者はそれほど異なるものではない。
 しかしニュアンスは大分違う。
 魔法使いたちは、皆それぞれに鍛錬を積み、少しでも多く、少しでも長く、元素と交感できるよう、努力している。
 だから「魔力が高い」ということは、全ての魔法使いたちの誉れである。
 彼らは元素と向き合う以上に、己の魔力と向かい合う必要があるのである。
 そこをすっとばして、「元素」――――と言うアイリ。
 彼女はありのままで、その精神的領域の住人だから、「魔力」という言葉―――――過程は、必要ない――――――ということなのか‥‥‥‥‥。
「ねね、レオン」
話しかけられて我に戻るレオン。背中を伝う汗が、冷たいのがわかった。
「‥‥‥ん?」
「いつまで、さわっているつもりなの?」
無垢なレモンは、当然あってしかるべき質問を投げかけてきた。
「えっ?」
何も知らないアイリは、すやすや気持ちよさそうに眠っている。そのだらしなくはだけたパジャマの下から、あらわになった腰まわりが覗いて見える。
 ‥‥‥さわ‥‥さわ‥‥さわ‥‥‥‥。
「‥‥‥‥‥‥気の済むまでかな‥‥」
 ‥‥‥もみ‥‥もみ‥‥もみ‥‥‥。
 邪悪の気配を察知して、さっきまで寝汚く眠り込んでいたはずのアイリ(低血圧)は、瞬間的に目を覚ました!
「このセクハラど変態ヤロウっ!!」
ぐはっっっっっ!!

 

 

 

 夕食を作るレモンと、それを台所で待つアイリ。二人楽しく談笑している。
「あ! そろそろあたし、ヴァリさん迎えに行ってくるね」
アイリはレオンを迎えに、出て行った。
 気がつけばもう夕冷えのする部屋に、レモンは一人残された。煮物の鍋がコトコト揺れていた。
 底が焦げつかないように気を配りながら、その間に食卓を片付けて、ふきんを絞る。初め、おままごとのようだったレモンのエプロン姿も、少しずつ様になってきたようだ。
(ふーっ)
一通りやることを終えてしまって、空白の時間ができる。話が弾んで、アイリを迎えにやるのが遅れてしまったからだ。あとは二人が戻ってくるのを待つだけ‥‥‥。
(‥‥‥‥‥‥‥)
手持ち無沙汰な時間が、頭に余計な思考を擡げさせてくる。
(まったく、アイリったら‥‥‥ひとりじゃなんにも、できないんだから‥‥‥‥‥)
料理や家事のことを言ってるのではない。レオンのことを言っている。
(あんな大胆なアプローチ受けて、本人だってまんざらでもないだろうに。なんの進展もないなんて‥‥‥)
 アイリは想像以上に「おくて」だったのだ。
 いつだったか、アイリと好きな男性のタイプについて話したことがある。
 たしか、背が高くて、かっこよくて、頭がいいとか運動神経がいいとか、話がおもしろいとか優しいとか、色々ゆっていた‥‥‥。けど、レオンは殆どその条件に当てはまる。
 それに、なんといっても相性はバツグンだ。相性というか、フィーリングというか‥‥‥。冒険したり、毎日のように一緒にいるから分かるけど、ウマが合うというか、同じ空気を吸って吐いてる、とでも言うような‥‥‥。たとえば一緒に道を歩いていても、景色の中の同じところが気にかかったり、何も言わなくても同じことを考えていたり、二人は瞬間的に意志の疎通が出来ている。長年連れ添った老夫婦が、言わなくても互いのことがわかるようなものだ。それに話し方とか仕草とか‥‥‥‥細かいところ、色々似てきているの、二人は気づいているのかな‥‥?
 二人の間を繋ぎとめる絆は、恋愛というより‥‥‥‥‥‥まるで、そうなるのが、初めから決まっていたことのようにすら思えてくる‥‥‥。
 それは運命‥‥‥‥‥そう。言葉にするなら「運命」のようなものなのだ。
 その運命の前に、他の誰が立ち入ることができるだろうか。
 今のまま、楽しいままの三人の関係が、少し変わってしまうのは寂しいけれど‥‥‥。
 そうなるのが決まっていることなのだから、あの二人には、早く結ばれて、幸せになってほしい‥‥‥。

 

 或いは当事者以上に当事者のことを、レモンは必死に考えているかもしれなかった。

 

 なのにアイリったら‥‥‥。あれだけ言い寄られて、何もできないんだから、まったく、だらしないったらありゃしない。
 あそこまでストレートに言われたら、それはうれしくて、舞い上がってしまうのはわかるけど、その気があるのかないのか、はっきりとした態度を取る、それが最低限、女としての礼儀だ。
 いいかげんな気持ちや、軽い気持ちで声をかけてくる人と一緒にしてはいけない。
 相手が真剣なら、こっちも真剣な気持ちで応えてあげなければ。

 

 そんな経験がないレモンには、心構え以上に、わかることは何もないけれど。
 正直なところ、アイリが少し、羨ましかった。
 ただモテるだけなら、レモンの方が数は桁違いに多いに違いない。
 でも、その中に、真剣にレモンと向き合おうとしてくれた者は、果たして何人いただろうか。
 向こうが軽い気持ちだから、こっちもそれに合わせているだけ。
 それが別に‥‥‥イヤってわけじゃないけれど‥‥‥‥。
 でも、たった一つ。
 本当に大切な気持ちは「一つ」だけ。
 その「たった一つ」を、レモンにそそいでくれた人は、まだいない。
 それは「たった一つ」なのに、幾百のニセモノに勝る価値がある。
 ニセモノたちはいくら集めても、その「たった一つ」に及ぶことはないから‥‥‥。

 

 レオンは一応、背は高くて、性格はちょっとどうかと思うところもあるけど、優しくて話おもしろいし、まあ見た目だって悪くないし、そんなヤツからあんな風に真っ直ぐ好きって、言ってもらえて‥‥‥‥うれしくない女はいない‥‥‥。
 そう‥‥‥。
 きっと‥‥‥‥そうなんだ‥‥‥‥‥‥。

 

 それはレモンが、ずっと意識はしていて、確認していなかった自分の想いだった。

 

 

 

 私は‥‥‥‥のこと‥‥‥少し「いいな」と思っていた‥‥‥‥‥。

 

 

 

 だって、今までの男たちは、ただ軽く声かけてきただけだったり、私のことなんか何も知らないくせにうまい言葉だけ並べてみたり、あるいは、家の財産目当ての連中ばかりだった。
 でも‥‥‥あいつは違った。
 初めから、私を一個の人間として扱ってくれた。
 見た目とか家柄とか、損得じゃなく。
 私のこと、特別扱いしないでいてくれた。
 だから‥‥‥‥‥。
 ‥‥‥‥‥。

 レオンったら、筋肉質でがっちりしていて、すっごい男らしいし‥‥‥
 もし、あんな逞しい腕や胸板で、それこそお姫様だっこなどされてしまったら‥‥‥‥
(きゃーー)
 思考はやや脱線気味になる。

 

 でも、そんな自分の想いより、素直に二人のことを祝福したいとレモンは思っている。
 それは決して、負け惜しみなんかじゃなくて。
 こうやって毎回、アイリにレオンを呼びに行かせるのも、レモンなりの取り計らいだった。アイリとレモンはいつでも二人一緒に行動するから、そのせいで、レオンとアイリが二人っきりになるチャンスを奪ってしまっている。
 二人の仲がなかなか進展しないのは、自分にも少し責任があるように思えるのだった。
 余計なおせっかいや嫉妬が、全くない、と言ったら嘘になる。けれど、そんな自分の小さな気持ちより、友人二人の幸せを祝いたい、そっちの気持ちの方がずっと大きいって、確かに言える。
 先日のこと。
「一体、アイリのどこがそんなに好きなの?」
二人きりの時に、レモンがレオンに尋ねてみたことがあった。確か、アイリが小用で(アリエルのブローチを直しに)、出掛けた時だった。
 レモンも何気なしに問いかけただけだった。会話を繋ぐ程度のもので、特別大層な答えを期待していたわけではない。「見た目が好き!」とか「アイリの全部が好き!」いつもみたいに、バカップル丸出しな答えが返ってくるものだと思っていた。
レオン「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 ところが。返ってきた答えは、存外大真面目なものだった。
 それを聞いたとき、レモンは胸に大きな衝撃が突き抜けた。そして思った。ああもう誰もアイリにはかないっこない。もしそんなことが、誰にも教えられず、自然と自分で出来るなら、それはどんなに素晴らしいことだろう。
 この話を聞いてしまったら、もう遅い。それは、言われてやることは出来るが――――――それでも十分偉いことに違いないが、誰からも何も言われず、自分で「感じて」することが出来たなら‥‥‥。
 あたし、いつもアイリのことをばかにしている。アイリったら、ぐうたらでだらしないし、掃除当番さぼるし、ちゃんと見てないと手抜くし、もうホントにいいかげんで、ダメダメなやつなんだけど‥‥‥‥。
 でも、あたしはアイリを尊敬している。こうゆう本当に大切なこと、ちゃんと出来る人だから‥‥‥。あたしも「アイリのようになりたい!」心からそう思う‥‥‥。
 後にレモンはこの話を、何人かの冒険仲間に話した。だが、「へー」「それのどこがすごいんだ?」返ってきたのは、まるで手応えのない返事だった。わかる人にはわかるが、そうでない人には、なんのことかさっぱり‥‥‥なのかもしれない‥‥‥。それ以来レモンは、この話は口外せず、ただ一人、胸の内にしまっておくことにした。

 

 

 西空の太陽は、いつの間にか室内に、光よりも多くの陰を落としていた。

 

 ‥‥‥あの二人‥‥‥‥‥
 ‥‥‥うまくといくといいね‥‥‥‥‥‥

 

 

 

 

 黄昏ゆく空、川面を渡る風、その中で。題名のない音楽を奏でるハーモニカの旋律が、沈痛に心を打ち付けてくる。
 アイリは声をかけることもできず、立ち尽くしていた。
 後背に気配を感じて、レオンは吹くのをやめた。
「おう‥‥‥もう、こんな時間か‥‥‥‥」
「‥‥‥ヴァリさん‥‥‥‥‥」
 それは問いかけにならない、呟きだった。
 尋常じゃなかった。あそこまで一心に、ハーモニカを吹くなんて‥‥‥‥。度が過ぎている‥‥‥。まるで荒ぶる魂を鎮めるために必要な、儀礼のようだった。
 アイリの怪訝を察して、レオンは言った。
「‥‥‥‥もう7人だ‥‥‥‥」
 いつもと違う。遠い顔をしている‥‥‥。アイリは一瞬、隣に座るのを躊躇わされた。
 レオンが冒険を始めて「7人」になる。それは、もう、帰らなくなった魂の数‥‥‥。
 親友もいた。ロクに会話もしてなかった奴もいた。でも、共に冒険に出た仲間だった。少なからず、互いの魂を預けあった仲間だった。
 それらはもう、帰ることがない。新しい時間が、それらに訪れることはない。会話をすることもない。共に酒を、酌み交わすこともない。つらい時、励まし合い支え合うこともなければ、手に入れた喜びを分かち合うこともない。
 生きてさえいれば在った筈の、色とりどりの可能性。それを思うと‥‥‥‥‥‥。
「俺は、居ても立ってもいられなくて‥‥‥‥‥‥こうして川に来る‥‥‥‥」
さっきの予感は半分当たっていた。だが、鎮魂歌レクイエムではない。鎮めなければならないのは、己自身の魂の方だったから。
「それに俺は、思うんだ‥‥」
レオンは言った。眼差しは川の上の中空を見据えていた。
「‥‥‥あれが、俺の全力だったのだろうか‥‥‥‥‥」
近接戦闘員の戦士として、常に前衛の最も危険な位置にいる。それでもなお、犠牲者を出してしまった。もっと、他にやりようがあったかもしれない。自分がもっと、危険を背負えば、失わずにすんだ命があったかもしれない。
「俺は本当に、精一杯、やれたんだろうか‥‥‥もっと、別な選択肢は、なかったんだろうか‥‥‥‥」
「‥‥!」
その言葉が、アイリの頭のどこか遠くの方に在ったものに響いていた。「もっと、別な選択肢」‥‥‥‥。その言葉に、どこかで自分もめぐり会っていたはずだ‥‥‥‥。

 

 

  ―――――――――――ありがとう――――――

 

 

「‥‥‥!」
(‥‥‥‥‥‥‥‥ギルバートさん‥‥‥‥‥‥)
 南の街であった記憶が、鮮明に蘇る。
 セブローさん、ルイズ、キャラバン隊‥‥‥‥シュトラセラトで出会った人たち。初めてのテレポーターや、魔法の絨毯にも乗った。そして、エドさんと‥‥‥‥‥ギルバート‥‥‥‥‥‥‥。
 それが正しいことだと、信じて疑わず、アイリは"それ"を行った。
 でも、それを証明できるものは何もない。
 「もっと、別な選択肢」――――――あの時、真っ先に脳に過ぎったのが、その言葉だった。
 だが、いくら手繰り寄せてみても、その回顧に救いはなかった。
 もし「別な選択肢」があったならば、その方法を取れなかったことを悔いることになるだろう。
 なかったならば、そのどう仕様もない事態を悔やむことしかできない。
 だけど‥‥‥‥‥だからといって‥‥‥‥。
 「仕方がなかった」という言葉で、片付けられないから、そんな思考が巡ってしまうのだった。

 

 

「俺は生まれた時から、親に捨てられ‥‥‥‥普通のやつより、ついてないことのが多い‥‥‥」

「多過ぎる‥‥とも思う」

「それに『7人』なんだ‥‥‥‥」

「たった数年ちょっとで‥‥‥7人も‥‥‥‥‥」

 

 「7人」―――――――その言葉が持つ重みを、アイリは差し迫っては感じることは出来ない‥‥‥‥少なくとも、レオンと同等以上には。

 

「そりゃあ、冒険家連中ん中じゃあ‥‥‥‥‥『死に神』なんて言うヤツも、出てくるもんだ‥‥‥‥」

 

「!!」
その言葉が激しくアイリの心を打ちつけた。
「そんなことないよ! 死に神だなんて‥‥‥ヴァリさんが‥‥そんなわけないでしょ!!」
咄嗟に出た言葉が怒声を帯びた。それだけが、精一杯の、仲間への思いやりだった。
「一緒に冒険できて‥‥‥助かってるよ‥‥‥‥」
逆にアイリの方が、張り裂けそうな風船だった。
「おいおい‥‥‥そんな、慌てるな‥‥。別に俺は、どこぞの連中から、なんて言われようが、気になんかしちゃいない‥‥‥‥」
振り払っても振り払っても不吉な影が、人生から纏わりついて離れない。かといって何もしなければ、ただ呑み込まれるだけ‥‥。そして世界は置き去りにして、いってしまうだろう。努力が苦しく空しく思え、休むことは赦されない。そんな自分の運命に‥‥‥時々、弱音を吐きたくなるだけ‥‥‥。
「‥‥‥‥‥‥」
アイリは、ひたむきな眼差しで見つめてくる。
「‥‥‥そんなことより‥‥」
「‥‥‥‥うん」
「一緒に冒険してる仲間から、そんな風に言ってもらえることの方が‥‥‥‥何百倍も‥‥勇気が湧くぜ」
見つめ合って、笑顔が生まれる。
「確かに俺は‥‥‥ガキん頃からツイてないことが多過ぎる‥‥‥‥」
「‥‥‥」
「でも、俺は‥‥‥‥そうゆう風に、考えないようにしたんだ‥‥‥」

 

「なあ、アイリ‥‥。神様って信じるか‥‥‥?」
「‥‥神様‥‥‥?」
何か祈るとき、神頼みのようなことをしないでもないが、信じてるかどうかというと‥‥‥よく分からない。
「俺はこう考えてるんだ‥‥‥」

 

 神様はこの世界の、たくさんの幸せを持っていて、それをみんなに配っている。うれしいことや楽しいこと‥‥‥色んな幸せを配って、みんなを幸せにしているんだ‥‥‥
 でも、同じように、不幸せも持っていて、こっちも、みんなに配らなけりゃならない。つらいことや悲しいこと、苦しいこと‥‥‥全部、配らなけりゃならない‥‥‥‥
 誰だってそんなもの、欲しくないだろう‥‥‥‥
 でも、配らなければならない‥‥‥

 

「もし、アイリだったらどうする?」

 

 自分には幸せばかりがきて、不幸せは他の人のところにいけばいい、と思うだろう。
 ‥‥‥‥それじゃあダメなんだ‥‥‥
 他人の幸せが羨ましかったり、妬ましく思って‥‥‥反対に、自分の不幸を押し付けたくて‥‥‥争いやいがみ合いが起こるだろう‥‥‥‥
 だから、戦争が起こるんだ。
 神様が配ってるものを‥‥‥みんな、平等に、受け取らないから‥‥‥‥‥。
 不幸が、また別の不幸を作ってしまうんだ‥‥‥

 

「‥‥‥‥‥‥‥」

 

「俺は考える‥‥‥」

 

 もし自分に不幸な出来事が起こったら‥‥‥、それは‥‥‥‥神様が自分にくれた、プレゼントだと思うんだ‥‥‥

 

「プレゼント?」

 

「ああ‥‥」

 

 ‥‥‥‥俺は今までに、たくさん‥‥‥‥人より不幸な目に遭ってきたと思う‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥でもその代わり、それを乗り越えて‥‥‥‥乗り越える度、俺は強くなってきた‥‥‥‥
 今の俺があるのは、そのためだ。
 不幸が俺を育ててきたんだ。
 ‥‥‥何も考えてないわけじゃない‥‥‥
 神様はよくよく考えて、それを配ったんだ。
 それに押しつぶされる子じゃ‥‥‥だめだから‥‥‥
 それに負けない‥‥‥‥強い子じゃないとだめだから。
 他の子には配れない。
 神様が「君なら大丈夫だから、きっと乗り越えられるから」‥‥‥そう思ってくれた、プレゼントなんだ‥‥‥‥他の奴じゃだめなんだ‥‥‥
 だから‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
 どんな困難があっても、つらく苦しいことが待ち受けていても、俺は逃げたり諦めたりしない‥‥‥

 

「何故だかわかるか?」

 

 

「‥‥‥‥‥」

 

 

「それが俺の‥‥‥‥‥物語だから」

 

 

 

 

 

 

 

 風が吹き抜けた。
 そして、レオンはハーモニカを吹き、軽やかなメロディーが川を渡っていった。
 アイリはレオンの左肩にもたれかかり、瞳を閉じて、その旋律に身を任せている。
 その時間が二人の中で、永遠になってゆく。
 二人、いつまでもいつまでも、そうしていた‥‥‥。

 

 

 

 

 

 

 

 

 長い休みを終えて、久々の冒険だ。
「ほら〜! 二人とも、遅いって!」
一人先行して薄暗闇の中から、アイリが声を張り上げている。
(まったく‥‥‥アイリったら‥‥‥‥。なんとなくいい感じになったはわかるけど、ちょっと浮かれ過ぎじゃないかしら‥‥‥)
この日のアイリは、確かに浮かれていた。気が緩み、地に足がついてない、といった感じで、ちょっと危うげな様子だった。それでも三人の抜群のコンビネーションの前に、数度行われた戦闘は、いずれも楽勝モードだった。
「おい、アイリ! もうちっと気、引き締めろ!」
さすがにレオンが注意した。
「いいのいいの。へーきへーき」
「ったく‥‥‥‥」

 

「ねえ! もっと深く、行ってみない?」
突然アイリが提案してきた。「だって、ここらもう、殆ど見て回っちゃったじゃん‥‥‥」
 正直二人は、今日のアイリの様子から、若干の不安を覚えたが、確かにこの階層はもう見て回るところがない‥‥‥。
「行くのはいいが‥‥‥」
レオンが返事する。レモンは訝しげにしていた。
「でも、3階は俺も行ったことがない‥‥‥。何があるかわからないからな‥‥‥。様子見程度で、深入りはしないぞ?」
「おー!」

 

 旧レッドアイ研究所地下3階。
「おい! こら、アイリ! 一人で先に行くんじゃない!」
「へっへ〜〜」
(ちょっと‥‥‥アイリ‥‥‥‥‥ホントにどうしちゃったのかしら‥‥‥‥)
「おい! マジでやめろって! こうゆうところには、侵入者用の罠とか仕掛けられてたり、するんだから」
先行するアイリを追っかけて、二人が扉をくぐった、その直後。
 ドッシーーン!
 重厚な音を立てて、鉄で補強された両開きの木扉が、自動的に閉まった。
「あっ」
「‥‥‥‥」
「あっ、じゃないでしょー。‥‥‥ちょっとアイリ! ちゃんとやらないと、危ないわよ」
レオンは開けようと力を込めた。が、扉は頑丈でびくともしなかった。
「閉じ込められたの?」
とレモン。
「うーん‥‥‥‥‥こいつは『魔法錠』だな」
「魔法錠?」
「ああ。多分この扉、魔法の力で施錠されてるんだ」
前にレオンは魔法錠に遭ったことがある。知り合いに「この箱開けてみろよ?」と、挑発的な提案をされたのだ。誰もその箱を開けられない。力自慢のレオンをもってしても駄目だった。その箱には魔法錠が施されていたのだ。魔法錠は衝撃を与えると解けるというから、大勢でよってたかって叩いたりぶん投げたり‥‥‥そうやって漸く開けることができた―――――そんなことがあった。
「閉じ込められたわけじゃないけど、こいつを開けるのは大分、骨だぞ」
三人の間に微妙な空気が流れる。
「じゃー、アイリさんにやってもらいましょーか」
「えええええーっ」
「だって、誰のせいでこうなったと思ってるの」
「がーーーん」
口で言っている。レオンも苦笑しながら、
「まあ、これは男でも開けるのは一苦労だ。せっかくだから、先にでも進――――――」
その言葉が言い終えるより早く。‥‥‥‥三人、感じた。
 何者かが‥‥‥‥いる。この部屋に‥‥。
 凄まじい‥‥「気」が溢れている。
 一つや二つじゃない‥‥‥‥‥‥七、八‥‥‥それ以上かも‥‥‥‥。
 さっきまでふざけ半分だった三人の表情から、笑顔は消えた。
 真剣にならざるを得ない、状況が差し迫ってきている。
 教団深部を侵す者に、襲い掛かる者たち‥‥‥‥。
 ‥‥‥‥護衛兵、警備犬、魔術師、教団信者、教団幹部‥‥‥‥‥‥。
 暗がりから息をひそめて、狙っている‥‥‥‥。
 未だ嘗てない危機を、三人感じていた‥‥‥。

 

 

 

 旧レッドアイ研究所地下3階‥‥‥

 

 現レッドアイ教団本部最深部‥‥‥

 

 それは‥‥‥‥‥‥

 

 開けてはいけない扉だった。

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