第13章 旧レッドアイ研究所地下3階

 激しい息遣いと、ぶつかり合う金属音だけが響いていた。
 時間にして、まだ10分経っていない。足元には斬撃や感電死した、幾人かの兵士と犬が横たえていた。
「うおおおーーー!」
ヴァリーが咆えた。
 身の丈ほどもある大剣が弧を描いて振り落とされ、また一人。鮮血を撒き散らして、兵士が石床に崩れ落ちていった。
 自分たちと同じ‥‥‥‥赤い血をしていた。

 

 先刻。
「ヴァリさん! こいつら‥‥」
アイリは悲鳴をあげた。数間ほどの距離に、胸を弓矢に貫かれて、頽れた教団信者がいる。
 レッドアイの研究所―――――――アイリにとって、余り良い記憶のない場所である。此処と街の地下研究所とで、一度ならず二度までも、失命の危機に立たされたことがある。かの秘密結社が極秘裏に開発した薬品の作用によって、ゾンビなどの生体兵器がうじゃうじゃいる―――――――そういった先入観があった。立ち塞がる者たちに生者はいない‥‥‥‥そう思って、戦闘に臨んでいた。
 だが‥‥。
 今、目の前で血の流して苦しんでいるそれは、明らかに"それ"ではなかった‥‥‥。自分たちと同じ「人間」だった。
 鉄の匂いがした‥‥‥。
 その教団信者は両膝をつき、苦しそうに呻き声を上げ、胸に突き刺さった矢を抜こうと、もはや、込められるほど残っていない力を振り絞り‥‥‥、しかしその力は、収縮する筋肉の力に抗するに値せず、抜くことも‥‥‥‥押し出すこともできず、ただ我が身を貫くその惨劇を、虚ろに、眺めて、喀血した。やがて激しく躰を震わせ―――――痙攣。浅く短い呼吸を繰り返し、そして‥‥‥‥‥‥‥息絶えた。
 人間だった。
 相貌は陰惨。彼方を見つめるような、瞳孔は小さく、焦点は合っていない。まるでこの世界の光が届いていないかのように濁っている。身に纏う襤褸や装束のせいで判別しづらいが、痩せこけているのは、満足な食事を与えられていないのか。挙動も常人とは異なり、怪々しい。何らかの魔法実験、薬物投与等に因るものだと推し測られる。だが―――――――それでも彼らは「人間」だった‥‥‥‥‥‥‥自分たちと同じ「人間」だった。
「ヴァリさん! こいつら‥‥」
動揺が悲鳴になって、発せられた。自分ではどうしていいか、判断できなかった。
 その叫びが届く時。レオンは二人の教団兵相手に、立ち回っていた。
「だから、どうした!」
戦いながら、質問の意味を解して、レオンが吐き捨てた!
 「人間」だから、戦わないというのか。同じ「人間」ならば、殺されていいとでもいうのか。
 「敵」の心配をしている暇はない。
 自分が生き残ることだけ、考えろ!!
 ‥‥‥‥たった一言の怒気に、それだけの意志を、レオンは込めた。
 その言葉を受けて。いち早く、冷静な判断を取り戻したレモン―――――丁度充電し終えていた元素を解き放つ。
 閃く稲光が、信者らや武装兵、番犬どもを呑み込んでいく。
 レモンの雷魔法を浴びた者は、気絶したり感電したり‥‥‥‥その場に崩れ、それまで敵によって占められていた空間が一挙に広められる。一瞬にして不利な戦局が押し戻された。
 そしてその間が、アイリに平静さを取り戻す時間を与える。
(やらなければ‥‥‥‥やられる‥‥‥)
 交渉の余地は、ない。ただ怪物相手に"する"こと、それと同じことを"し"なければならない。
 アイリが覚悟を決めた時、薄暗がりの向こうからは、更なる敵が近付いて来ていた‥‥‥‥。

 

 

 三人、言葉は無かった。
 ただ生と死とが隣り合わせのぎりぎりの境界線に立って、各々が各々、自分にできることをする―――――それだけだ。
 レオンの使命は敵を倒すことでない。敵を食い止めることにある。すれば後ろの二人が、なんとかやってくれるから。あの二人の支援は、十分に期待していいものであるとレオンは知っている。寧ろ突出して、後ろを取られること、それこそ恐れなければならない。囲まれれば危険は飛躍的に高まるし、それに、あの二人が敵前に晒される状況は、避けたい。だから、なるべく多くの敵を受け持って、戦線を維持する。無理してまで倒そうとはしない。そうして彼女たちの支援を待つ――――――それが最も危険の少ない戦術、安全な戦い方だった。攻撃ではなく防衛。巨漢の戦士は、自らの役割を正しく把握している。
 レモンは生粋の支援職である。近距離の戦闘に耐えることはできない。だから三人の中で、最も安全な位置にいること――――――それが彼女の第一の責務だった。彼女が危機に晒されれば、他の二人は大きく態勢を変えざるを得ない。それによって全ての連携に狂いが生じてしまうのだ。レモンは二人の掩護下、その安全な位置でしっかりと元素を溜めて、電撃魔法の準備する。三人の中で最も破壊力・掃討力に優れた攻撃が、レモンのこの「ライトニングワインダー」なのだ。押し込めれた戦況を一気に覆す、それだけの役割をレモンは担っていた。
 アイリはひたすら矢を掃射し続けた。通常ならば、機を見るに敏。ピンチもチャンスもいち早く見極めて、それを先んずるのがアイリである。それは女だてらに恵まれた運動神経、類まれな魔法力、それと並んで、彼女の三大長所といえるものだった。しかし、状況はそれどころではない程、差し迫っている。レオンが必死に食い止めるも、数が多過ぎた。戦況は膠着しているが、それは彼の献身的な働きの上に辛うじて保たれているに過ぎない。一つ、間違いが起これば、全ては済崩しになってしまう。これほど危険な状況は今までになかった‥‥‥。アイリは、敵を倒すこと、それが敵わなくても、消耗させること、少しでも気を引くこと‥‥‥‥、レオンの負担を軽減させることを専に、ひたすら矢を射続けた。そして時々、あぶれてアイリやレモンに襲い掛かってくる敵は、確実に処理しなければならない。―――――彼女に考える時間はなかった。ただ手数だけが、必要だった。

 

 レモンのライトニングワインダーが放たれ、一挙に戦線を押し上げていく。それが寸毫、レオンに呼吸を調える猶予を与えてくれる。
 巨漢の戦士は肩で息急き切って、もうさっきからつぶれそうな臓腑の鼓動を宥めた。
(この部屋は何なんだ‥‥?!)
戦いの最中、朧げに浮かんできていた疑問が、意識下で確かになる。
 数が多過ぎる! こんなにも大量に、教団のヤツラが詰めているなんて‥‥‥。
(ここに、いったい何がある、ってんだ‥‥‥)
 振り放けば奥に拱門があって、その向こうに大きな空間が広がってる。敵はそっちから沸いてくるようだ‥‥‥。ここはその広間に続く通路だった。奥の広間は、ここや他の研究室と違い、天井が高くドーム状に迫り上がっている。その中央――――――遥か奥の方に、燭台に乗せられた二対の大きな灯りが見える。その周りにも蝋燭か何か‥‥‥小さな灯りが無数に燈されていて、その光源を辿ると、そこは堆く壇状になっているのが判る。
(あれは‥‥‥‥祭壇‥‥?)
「レッドアイ教」―――――かの秘密結社「レッドアイ」の名を冠するこの宗教団体が、邪教の類であることは、ここまでの戦いで判っていた。その邪教徒達が、ここで一体、なにをしていた?! あの祭壇は何を祀り上げるための‥‥‥? ここで、どんな忌々しき儀式が行われていたのか‥‥‥‥? 疑問は錯綜した。
 だが時間は、十分に考えるだけのゆとりをレオンに許していない。
 軍靴の響きが聞こえてくる‥‥。通路の左右、両壁に掛けられた魔源ランプは、幾重にも折り重ねられた複雑な陰影を壁や天井に投げ掛ける。その影が揺れ動きながら、次第に巨大化していき――――――――全身武装、鎧甲冑の兵士達が肉薄してきた!
 増援部隊は際限なく、後から後から湧き上がり、海嘯のように押し寄せてくる。
(十‥‥‥‥二十以上‥‥‥‥‥いるな‥‥‥‥)
 それは明らかに、レオン一人で請け負える分量を超過していた。
 レオンの奮戦空しく、ついに後衛二人が、敵刃に曝されることとなったのである。

 

 

 終わりのない戦闘が続いた。それはさながら、狂信者たちの宴。
 激しい刃の応酬の中、レオンは後衛二人を思い遣った。既に幾人か後ろに洩らしていた。対処できるだろうか‥‥。押し込まれたら、女の力じゃあどうしようもない。でも、二人ならやってのけるだろうか、今までのように‥‥。
 それに気に掛かるのは、アイリのことだった。
 今日のアイリは、いつもと違う。どこか、いつもと違って、動きに思い切りの良さがないような気がした。相手が人間だからだろうか‥‥。無理もないことかもしれない‥‥‥‥。
 やがて、そんな心配をするのも、レオンはやめた。もう自分の分だけで、精一杯だった。
 アイリは石柱をうまく使った。石柱は通路を奥の部屋まで導くように規則正しく並び、アイリは手前から一番目と二番目の柱をうまく活用した。身の熟しは、いつも通り機敏なアイリ。敵に追い遣られながらも、石柱を支点に囲まれないように立ち回ったり、柱が邪魔して敵は長い得物を振り回せなかったり‥‥‥‥、ちょっとでも地の利を活かす戦い方をした。
 レモンもその逆側にある、一番手前の柱を盾とした。敵はレモンの強大な魔法を恐れたが、レモンも実は、敵が数を恃みに接近戦を持ち込んできたら、どうしようもなかった。そのぎりぎりの駆け引きの中で、柱は両者にとっての防護壁だった。牽制し合う、そのほんの僅かばかりの時間、レモンは必死に元素を喚び集めた。
 視界に映るは敵ばかり。聞こえるのは、鬩ぎ合う金属音に、悲鳴‥‥‥‥。
 時折見える、仲間たちの無事な姿に、心はほんの僅かばかりの安堵を得る。
 ふと、通路の光量が減滅したのは、迸る返り血が魔源灯を掻き消したからである。
 ‥‥‥‥これは悪夢ではなかろうか‥‥‥。
 もうさっきから、いつ「終わ」っても可笑しくないくらいの、悪夢がつづいている。
 この戦いの出口が見えなかった‥‥‥。
 そもそも出口はあるのか? あったとして、その形は?! 深い洞窟の闇の終わりが、地上に続いてるとは限らない。
「がっ!!」
聞き覚えのない、呻き声がした。
 張り詰めた緊張の中、不意に、それまでと違った空気の流れが走った。そんな呻き声は、アイリの耳覚えの中になかった‥‥‥。頭を巡らすと、額から血を流したレオンの姿が見える。
(‥‥ヴァリさん?!)
だがアイリは、他人に感けてる場合ではなかった。自らに迫り来る敵を、食い止めるので手一杯だった。レモンも同様である。
 まずい――――そう思った瞬間――――――すぐにレオンは、自力で立ち直した。単純な力やスピードだけでない。いざという時に気を奮い起こして平時では得られないような力を発揮する、レオンの底力は尋常ではなかった。そして傷も、額を掠めただけで軽傷だったのかもしれない。大剣を斧槍兵の鎧の継ぎ目に差込み、豪快に突き倒した。
 正直、斧槍兵が一人消えてくれるだけで、戦況はぐっと楽になるような錯覚を、アイリは感じていた。
 この斧槍兵――――――レッドアイ護衛兵の武装が、三人を苦戦させること、必至だったからである。
 その長い斧槍にあしらわれて、レオンは剣を絡め取られないよう、気を配って戦わねばならなかったし、アイリの矢は鎧や兜に防がれると致命傷を負わせることができず、軽装な者を仕留めるより矢数、精度が必要とされていた。近接戦闘に不慣れなレモンにとっては、完全武装の兵士は恐怖の対象でしかなかった。
 そんな護衛兵を討ち取るごとに、心に僅かばかりの救いが得られるような気がしていた。が、兵士が一人倒れたからといって、戦況は一向によくならない。教団側の兵は湧き起こるように、いくらでも現れてくるのだった。
(だめだ‥‥)
(まずい‥‥‥)
(‥‥‥‥‥‥‥‥)
このままではもたない‥‥‥‥。三人、考えることは一つ。だが‥‥‥‥‥‥手がなかった。何を、どうすれば、この状況を打開できるというのだ‥‥‥。
 もしこれが通常の場所ならば。方法はいくらでもあった。
 例えば、最も威力のあるレモンの雷魔法、その掃射で敵が怯んだ隙に、一斉に逃走を図るのだ。それが一番有効的な策である。が―――――。
 いま三人の背には、頑強な扉―――――「魔法錠」が鎖され、退路を塞いでしまっている。
 これがある限り後ろに道はない。
 これを抉じ開けるのは容易ではない。そもそも前からは、敵が間断なく襲い掛かってくるのだ。そんなことに人員を割けるほど、戦力に余裕がない。
(ジリ貧‥‥‥‥)
不吉な言葉がアイリの脳裏を過ぎった。その間にも、迫る敵を弭で引っ叩いて退ける。
 そして状況は、更なる絶望の淵へと陥っていくのだった。

 

「あ‥‥‥」
小さな悲鳴だった。
 それまで抜群の破壊力を誇ったレモンの「ライトニングワインダー」、それを放ち終えた後、崩れる教団信者たちの中から、一人の斧槍兵が姿を現した。偶々なのか狙ってそうしたのか、この兵士は味方の陰になってレモンの魔法をやり過ごしたのだ。
 魔力を使い果たして無防備なレモンの前に、斧槍兵が立ちはだかる! そして―――――振り被った。
「あ‥‥」
次の瞬間――――――――――レモンの体が弾け飛んだ!
「レモさん!!」
思わず叫んだ。
 その叫びに状況を看て取ったレオンは、咄嗟に目の前の敵を引き倒して、それ以外の全てを無視して駆けて、横たわるレモン目掛けて斧槍兵がとどめの一撃を放たんとするまさにその瞬間―――――――横合いから、突き刺した!! あらぬ角度で折れ曲がる斧槍兵の頸。
「ヴァリさん!」
アイリも自分の敵を仕留めて、駆け寄った。
「‥‥‥う‥‥」
レオンがレモンを抱えている。
 額に血が滲んでいた。レモンは気を失っていた。
 だが、他に大きな外傷はない。それだけが不幸中の幸いと言えるだろうか。斧槍兵に切り払われる瞬間、レモンは咄嗟の本能で、槍の斧部を躱し、柄の部分の打撃だけで済ませていたのだ。
 ただ、打ち所が悪かった。弾け飛ばされた勢いで柱に激突し、その衝撃で気絶してしまったのだった。
 ‥‥‥‥悪寒が走った。
 冷たい汗が背中に滲んだ。蒼褪めるのが自分でも判ってしまうくらい、冷静に判った。
 これまで爆発的な威力で状況を挽回してくれた、レモさんの電撃魔法‥‥‥それ失くして、戦いを、続けなければならない‥‥‥‥‥しかも‥‥‥気絶したれもさんを守りながら‥‥‥。
 敵はまだ十分にいる。
 その時、教団兵は、レモンの魔法があったからか、全体的に退いた位置にいた。再び秩序を持って攻めるべく、態勢を立て直している。無機質な、時計仕掛けのような、亡霊の徘徊。蠢く鎧兜たち‥‥‥。
(あれを‥‥‥二人で、凌ぐ‥‥‥‥‥のか‥‥‥)
その可能性‥‥‥起こり得るべき状況‥‥‥‥‥三人で守れなかったものを二人で? そんなのバカにだってわかる!!
「‥イリ!」
(あたしたち‥‥‥‥‥ここで「終わる」の‥‥?)
「アイリ!!」
傍でレオンが叫んでる。
「このままじゃまずい!」
 ‥‥‥‥。
「俺は扉を壊す!」
 扉‥‥‥‥‥魔法錠‥‥?
「その間、敵をひきつけろ!」
 ひきつけろったって、どうやって‥‥‥。三人でだって‥‥‥できなかったことだよ‥‥‥。
 アイリの疑問に応じることなく、レオンは扉に向かっていた。
「ウオオオォォォーーー!」
レオンは叫んだ。
 そして大剣を振るった! 叩きつけるように、何度も何度も何度も何度も‥‥‥野獣のような剣撃を、扉に加え続けた! 激しい金属音に飛び散る火花、悲壮な叫び‥‥‥‥‥‥それはまるで、この世の終わりが来たような、耳を塞ぎたくなるような光景だった。
 戦場に一人取り残される、アイリ。
 そして軍勢の行軍が、近付いてきた‥‥‥。

 

 

 

 心には殆ど諦めに近い、覚悟のようなものが揺らめいている‥‥‥。

 

 さっきまで、三人で戦っていた‥‥‥‥‥
 けど今‥‥‥、レオンは扉に向かい‥‥‥レモンは気を失っている‥‥‥‥
 今度はそれを、一人で行わなければならない‥‥‥‥‥
 この状況を打開する方法‥‥‥‥‥
 ‥‥‥‥‥‥‥‥"あれ"ならば‥‥‥。

 

 

 鹿革の弓束を握り直し、アイリは射位に入る。
 精神を集中させる。心と外気の間の、隔を解き、流れ込んでくる自然の理。その清流に魂を、泳がせていくように。‥‥‥‥‥‥‥‥心は円に‥‥‥‥‥‥とぎ澄ませて、とぎ澄ませて‥‥‥少しでも多くの‥‥‥‥‥。
(この技は、いっぱいおまえたちの力が必要だから)
 実戦で使うのは、初めてだった。
 集めた元素を、ひたすら練る。それは更なる元素の集約。集めた元素を練り込んで、圧迫。密度を色濃くする。その作業は可能な限り行われる。「練る」――――――それは「加工」に近い。元素を下腹部あたりに旋回させながら、少しずつ自分の意のままにしていく。
 そうして練度の高められた元素を右掌から、ゆっくり‥‥‥‥ゆっくり‥‥‥‥‥確実に‥‥‥、確かめるように紡ぎ出して、一本の魔法の矢を織り込んでゆく。
 通常は、番えた矢に添えるように元素を込めて、放つ―――――だけである。
 それは矢の硬度を高め、攻撃力を補助する程度の魔法だった。
 だがこの矢は違う。
 全て、元素から生成される。
 それだけに必要な元素量も桁外れになるし、それらを制御してまろめつつ、更なる元素を集め続ける、その二つを同時に操る高度な魔法力が必要とされてくる。
 だが、一から元素によって生成された魔法の矢は、元素の練度、それ次第で、いくらでもその強度を高めることができる。
 その破壊力‥‥‥‥。
 この矢の前では鎧や盾、あらゆる防具が、単なる錘でしかないことが証明される!

 

 唸り狂い、押し寄せる軍勢の波。見据えるアイリの瞳に、山吹色の炎が揺れていた。
 アイリは一本目の矢を放つ。
 光の衝撃!!
 空間を切り裂く、凄まじき閃光!
 光の渦が迸り、群集の中の一体の兵士の兜の中心を貫き、全き衰えも見せず、闇の向こうへ消えていった。
 残光は緩やかにその軌跡を描いた。
 ―――――沈黙。
 おそらく一瞬の内に絶命したに違いないであろう教団兵、その遺体が、翻筋斗打って倒れて、石床に俯した。
 湖面を伝う漣のように、動揺が広まっていく。兵士たちは狼狽えた。
 その機をアイリは、逃しはしない。
(‥‥ここだ!)
 再び"それ"は放たれる。
 二発目のそれは、斧槍兵の厚い装甲の胸板を撃ち砕き、上昇して、さらに後方の兵士の肩当を弾き飛ばし、石壁に突き刺さった。ややあって、大気の中に蒸発するように、矢は消えていった。
 どよめき。
 ‥‥‥‥あんな攻撃は今までなかった‥‥‥‥‥。
 ‥‥‥‥あんなのを喰らったら‥‥‥一溜りも無い‥‥‥‥‥。
 一発目の矢で兵士たち間に揺らめいた疑心が、二発目の矢を受けて確かに点りつつあった。
 薬物投与された狂信者らでも、命は惜しい。
 いつしか信者たちの行軍は止っていた。

 

 いま戦況は新たなる局面を迎えている。
 並みいるレッドアイ教団兵、それがたった一人の少女を前に攻め倦んでいた。
 さっきまでの優勢と劣勢が入れ替わりつつある。
 ――――だが。
 一方のアイリには、別の危機が降り掛かっていた。
 それは魔法矢による莫大な元素の消費だった。
 魔法矢はその破壊力を得るのに、集めた元素を限界まで凝縮する必要がある。それはたった一発で、体内の元素が空っぽになるくらいの消耗がある。―――――アイリはそれを二発放った。おのれの限界を超えた元素量の交感に、アイリの肉体は激しい疲労に襲われていた。全身にのしかかる巨大な重圧。言い様のない虚脱感がアイリを苛んだ。
(‥‥まだだ!)
 呼気を整え、少しでも早い回復を‥‥‥‥試みる。平静を取り繕った。
(まだあと一撃‥‥‥‥‥‥どうしてもあと一撃、必要だ‥‥‥)
 状況はまだ、一刻も予断を許してはいない。
 そのために、必ずあと「一撃」、くわえてやらなければならないのだ‥‥‥。
 経験上、アイリは知っている。
 絶対的に劣勢な状況下、その流れひっくり返すために必要な「決定的な三撃」の存在を。

 

 

 「決定的な三撃」―――――――アイリはそう名付けた。
 誰から学んだものでもないから、これはアイリの独特なセンスに拠る見識である。
 アイリはこう考える。
 スポーツでも喧嘩でも何でも、争いのフィールドには「運」が転がっている。
 それは試合開始の前は、誰のものでもない。だが試合が始まって状況が作られていくと、その「運」をより多く集めた者が存在してくる。すると試合は、その者を中心に回り出すようになる。それが「流れ」である。
 「運」をより多く集めて、いい「流れ」を作る―――――それこそが、試合に勝つために取るべき最小限の一手であり、それを正確に理解し、実践すること、それが「勝利のメカニズム」である。
 口で言うのは簡単だが、実際はそれほど容易なものではない。
 例えば、A相手に有効だった技が、B相手には通じず、X状況下では悪手であった戦術が、Y時において最善の手となることもある。さらに戦況なんてものは、絶えず変化し続けるものであるから、その中で常に正しい行動を把握し、実践するというのは、中々できるものではない。
 また、争いというのは、人が必死になればなるほど、予期できない事態が起こるようになっている。それは例えるなら、歩いてる時に転んでもすり傷程度に済むのに対し、全力疾走して転べば、大怪我になり兼ねないというのに似ている。平時であれば気にもとめないイレギュラーも、争いの中では取り返しのつかない失策となってしまうものなのである。
 そのように、いかに正しくメカニズムを理解していても、いい「流れ」を保ち続けるのは難しい。逆に言えば、どんな強者であっても必ず「流れ」を失ってしまう状況は来るものなのである。避けては通れない悪い「流れ」、それを覆す手段、それがアイリの考えた「決定的な三撃」なのである。
 決定的な三撃――――――それは、なんでもいいから相手に「危険だ」と思わせる有効打を、同じ方法で三撃くわえる―――――ということだった。
 この考えに至ったのは、学校の授業でやったフットボールがきっかけだった。それで例を挙げるならば、それは、思い切りのいいミドルシュートでもいい、ドリブルの巧い奴が単独突破してもいい、ただ背のでかい奴をゴール前に立たせて、そいつにセンタリングを合わせるだけでもいい。何でもいいから、相手に「あれはまずいな」「ほうっておいてはいけない」というような、「守」の意識を想起させる攻撃を加えるのだ。それは同時に、味方に「いけるかもしれない」という「攻」の期待を呼び起こす。正にその瞬間、意識の上では、両者の攻めと守りの「流れ」はひっくり返っているのである。
 だが、これは単発ではいけない。一発ではただのラッキーパンチみたいなもの。その程度で「流れ」という、確たる勝利のメカニズムによって裏打ちされたものは、覆すには至らない。
 だから、だいたい三撃くらい必要だというのが、幼い頃から大小様々な勝負事を経験してきた悪餓鬼アイリが、身に着けた勝利の哲学なのである。
 何故「三撃」かと言われれば、二撃でも十分「流れ」は傾く、のだという。ただ二撃程度だと、傾いただけで、それまでに形成された「流れ」を超えるものではない、というのがアイリの見解である。実際どんなスポーツでも、「おしい」という攻撃を二回続けて行うと、そこまでは良いのだが、そこから相手がしっかりと守りを固めるようになってしまい、そこで状況は落ち着き、結局終わってしまう、ということがよくあった。一回目と二回目に比べ、二回目と三回目の間には、敵の心理の動きが存外大きい、とアイリは考えている。
 だからこそ、である。
 だからこそ「三撃」必要なのだと、アイリは考える。
 誰だって物事、優勢な時は、攻めに意識が高まり、反面守りは薄くなる。その隙をつけば、奇襲も成功し易いだろう。しかし、それが許されるのは二撃までである。二撃目は「流れ」を傾かせる。が、二回も同じ形でピンチを迎えれば、さすがに相手もそれを警戒してくる。傾きかけた「流れ」を元に戻すべく、態勢を改めてくる。
 そのため、全く同じ形の決定打を、三撃つづけて打ち込むのは非常に難しい。大概そこで阻まれて、終わってしまうものである。
 だが逆に、こうとも言える。
 一撃目二撃目のような奇襲でなく、相手が十二分に警戒した状態で、それでも通用した三撃目。それは相手の万全な「守」を凌駕した「攻」なのである。油断ではない。防ごうとして、防ぎ切れなかった「攻」なのである。これがある限り、相手は常に自らの「守」に対して、不安を抱いて戦わなければならない。だから「三撃」は、勝利のメカニズムにおいて、どんな状況をも覆すことが出来る決定打なのである。

 

 

 

 「三撃目」のため、アイリは元素を喚び集める‥‥。

 

 ――――もういやだ―――――

 

 どうして?

 

 ――――‥‥‥‥‥――――――

 

 お願い! どうしてもあと一回‥‥‥‥一回だけ、必要なの!

 

 ――――‥‥‥‥‥‥‥‥―――――――

 

 

 必死に掻き集めつつ、失われてゆこうとする元素を、無理矢理つなぎ留める。そして三本目の矢が精製される。
 限界だった。
 みんな、離れていこうとする。
 もう時間がない。もはや狙いを定める、その刹那も惜しい。
 ともすれば綻びそうな魔法の矢。アイリは強引に捻じ込み、射放った―――――――そこでアイリの元素は尽きた。
 三本目の矢は、斧槍兵の喉頭に突き刺さった。斧槍兵はそのまま膝をつき、仰け反って上体を後ろに折るように、傷痕を衆目に晒すようにして果てた。その凄惨さが、等しく教団兵の心胆を寒からしめる。
 あたりは沈黙に覆われていた‥‥‥。
 元素を失ったアイリの全身から、玉のような汗が流れていた。体力とも精神力とも違う何かが、体の中から致命的に失われたようだった。
 元素たちの呼び声は、もう聞こえない。アイリの呼びかけに応えることもない。
 理を侵した者に、元素たちの心は開かれない。
 交感は失われた。
 もう、手は残されていない。
 このまま敵が態勢を立て直せば、あとは‥‥‥‥‥。
 このまま何も手を打たなければ"そう"なるのは必至だろう。
 だが、そこでアイリがとった行動―――――――残された力を振り絞り、仕上げの一手、空弦を引いて射構えた。

 

 

 アイリには確信がある。
 「三撃」は打ち込まれたのだ。
 流れはもう、こっちのもの‥‥‥。
 敵は、あの矢を恐れているはず。
 混乱か‥‥‥、次にあれが来たらどうしようか、対策に思考を巡らしている筈だ。
 いま追い詰められてるのは、向こうの方なのだ。
 だから。
 悟られてはならない‥‥‥‥‥もう、次の手なんてないってことを‥‥‥‥。

 

 心身は疲労に蝕まれている。
 行く筋もの汗が滝のように、頬を伝って流れ落ちた。
 ―――――あつ苦しい。
 動悸が心臓を突き破りそうだ。
 呼吸が―――――したい。
 新鮮な酸素がほしい。
 臓腑がそれを欲してる。
 その伸縮運動に連動して、無意識に肩が上下する。
 肉体は自らを健全に保とうとする意志を持つ。
 そのために不必要な作用は、何一つとてない。
 だが、噛み殺せ!
 決して気取られるな。
 一部の隙も見せてはいけない‥‥‥。
 垂れ落ちる汗がぼたぼたと石床を濡らしている。
 元素だけではない。それまでの戦闘で酷使した肉体が悲鳴を上げていた。
 あちこち、転げ回った際の擦過傷。
 いつどこにぶつけたのかもわからない、左の大腿部が打撲していた。
 引分けを維持する両の上腕は痺れた。
 だがアイリは――――――口を固く結んで呼吸を鼻でするようにし、胸や肩の動悸を抑え、痛みも、流れ落ちる汗も、気に留めるそぶりも見せない。
 平静を取り繕う―――――ただ、それだけのために、必死になった。
 見よ! アイリのこの惨めな姿を。
 元素たちに愛想を尽かされ、精魂尽き果て、もう何の手も残されていない。
 それでも並みいる敵勢に向かって、精一杯居丈高に空の弦を引き絞り、はったり一つでやってのける無様な勇姿を。
 このはったり一つに、三人の命が委ねられているのだ。ばれれば、あとには無残な惨殺死体が三つ転がるだけ。
 一世一代、命懸けのはったりが、其処に在った。
 そしてアイリには、このはったりがばれない、密かな打算がある。

 

 

 犇く教団兵たちの間に、ぽっかりと開いた空間がある。三本目の矢に喉元を貫かれて、仰け反るようにして果てた斧槍兵の周りだ。
 無残な死に様を晒す同胞に、近寄って介錯しようという者は一人もいない。――――――それは、敵が想像以上に、あの矢を恐れているからだ。ちょっとでも他者と違った動きをすれば、矢の標的とされる――――――そうゆう警戒心が、向こうの集団心理に働いているのだ。
 攻めるにしろ、逃げるにしろ、まずは別の奴が狙われればいい‥‥‥‥‥それが兵士たちの脳を第一に占めていた。
 魔法矢――――――その効果は絶大だった。
 実はよく見れば、それは前の二本と違う。
 凄まじい勢いであらゆる物質を射貫いた一本目と二本目。それに比べて三本目の魔法矢は、斧槍兵の喉部に突き刺さり、そこで止まってしまっている。
 元素の練度が充分でなかったのだ。
 冷静な観察眼を持つものがいたならば、ここを以って、アイリの元素に限りがあると知れたであろう。
 だがいまこうして、ゆっくり呼吸を整えながら見渡すに、そのような鋭敏な思惟を持つ者の気配は伝わってこない。
 そうゆう切れ者がいないか‥‥‥いても、この混乱の最中では、まともな観察眼、心理分析を働かすことは難しいのであろう。
 あるいは気づいた者がいたとしても。「実はもう元素は尽きている」―――――そんな保証はどこにもない。あくまでも半信半疑の域を超えるものではない。そうゆう智恵者はそんな憶測のために、自らの命を賭けるまではしない。それより、誰か他の奴らが犠牲になって、そこに自らの判断が正しかったことを確かめたい―――――そう考えるのが、なまじ他人よりカンの働く者の心理だろう。

 

 警戒する教団兵の中に。一人―――――左端に、挙動の怪しい者がいる。
 じりじりと体を裁いて、アイリの視界の外にはずれようとしている。
 おそらく、自分の立ち位置が弓を構えるアイリの背中側だから、回り込んで仕留められるか、自分の足の可動を、具足の重さを、計っているに違いなかった―――――冷や汗を掻きながら。
 全員立ち止まって、身動き一つ取れない状況である。それを看過ごすアイリではない。
 アイリは静かに、雄大に―――――弓の角度を変え、威風堂々、その者めがけて照準を合わせた。
 するとその兵士は「びくっ」と体を震わせ、全身の汗を飛び散らせて硬直―――――動かなくなってしまった。
 一呼吸置き。アイリは再び、ゆっくりと弓を正面に戻す。
 そこでまた、両者の間に緊張が張り巡らされた。

 

 両軍動けないままの睨み合いが続く‥‥‥。だがアイリの頭は冴えていた。
 脳の中の血液は目紛るしく循環し、アイリは周囲を仔細に観察。そこから次に起こり得る可き状況を予測している‥‥‥‥。
 戦況は依然、何も変わっていない‥‥‥ように見える。が、実は今、穏やかな水面に小石は投じられていた。その空気の些細な変化を、アイリは巧みに感じ取ることができる。
 こちらから仕掛けられる手はない‥‥‥‥だから、次に動きがあるとしたら敵‥‥‥‥‥それも、複数による同時攻撃だ――――そう、アイリは想定していた。
 というのは―――――いま奇襲を仕掛けようとした一兵卒がいる。それが、アイリの泰然たる所作によって、容易く封じられてしまった。そこで敵が復た同じ手を試みるには、極めて高い勇気と、低い知能が必要となってくる。それら稀有な蛮勇の所有者がいる可能性よりは、別の手段を講じる方――――――複数の者が示し合わせて同時に攻撃を仕掛けてくる方に、状況の妥当性を感じられたのだ。
 そしてそれこそが実は、採られればアイリにとって最悪、回避不能な、必死の攻撃だったのである。
 さっきの一兵卒のように威嚇だけで尻込みしてくれるならともかく、仮に一人倒しても残りが決死の特攻を繰り出してくるような攻撃は、元素の尽きたアイリに何の対応策もなかったのである。或いは「仮に一人倒しても」―――――その前提すら危ぶまれる程、アイリは消耗し切っていた。
 だが、様子を見渡す限り――――――杞憂。その心配も、今しばらくは必要なさそうである。
 兵士たちから受ける印象は混乱や動揺‥‥‥‥依然としてそこから立ち直れてない気色であり、聴覚を研ぎ澄ませても、会話をしているそぶりは無い。ここから、その戦法を発案し、意志を通じ合わせて、実行に至るまで、まだまだ幾分かの時間を要するであろう。
 そもそも、さっきまでの戦闘で感づいていたことだが、狂信者どもに優れた指揮系統は存在していないように思われる。恐らく彼らは「侵入者を排除せよ」のような、単純な大命令によってのみ動かされる傀儡兵士で、信者同士の連係もない、ただの烏合の衆。戦術も何もかも、バラバラな集団だった。
 ならばアイリは――――――こうしてただ、時間を稼いでいるだけでいい。
 そうして少しずつ、呼気が落ち着き、僅かながらでも体力が回復することを期待する。
 或いはこうしていれば、やがて、敵が退いてくれる――――――ということもあるかもしれない。
 だから、見栄を張って牽制し続ける。「無駄な殺生は好まない!」「寄らば射る!」の構えを崩さない。
 もう、他に何も手はないから。
 今、自分のできる精一杯‥‥‥‥‥‥アイリは"し"続けた。
 そして―――――。
 それはほんの数分のことに違いなかった―――――――だがアイリには数時間のことにも思えた。
 辺りに響く、錆びた丁番の軋む音。‥‥‥‥‥‥後方の扉が開かれた。救いの神は舞い降りた。
「アイリ! 出るぞ!」
遂にレオンが、魔法錠を抉じ開けたのだった。

 

 弾け飛ぶように、レモンの元へ走る、アイリ‥‥‥。
 一瞬の気の緩み。その動きに、それまでの虚勢がばれてしまわないかと思ったが、もう、そんなことは、どうでもよかった。
(助かるかもしれない‥‥‥)
初めて見えた希望に、疲労も虚勢も何もかも委ねて、アイリは一目散になった。
 駆け寄って、気を失ったままのレモンを担ぎ上げる。が――――――――重い。こんなに重かっただろうか‥‥‥。
 女性の中でも、かなり小柄な体格のレモン。持ち上げるくらい訳無いはずだった。
 しかしそれは「意識」があれば、の話である。
 普通、人は持ち上げられる時、少しでも楽に持ち上がるよう、無自覚のうちに持ち手に協力する。持ち上げられてからも、相手に負担をかけないように、重心をずらして体を預けやすくしたりする。
 だが無意識の人間にはそれがない。ただただ重力に対してのみ従順な「物」と同じなのである。
 それは数十キロの「物体」だった。
 いくらレモンが小柄であっても、それを女の力、それも疲れ切ったアイリが、持ち上げるのは容易なことではなかった。
 けれど、そんなことは言ってられない。生きる希望がやっと見えたのだ。アイリは力いっぱい、石床からひっぺがすようにレモンを持ち上げ、そこから一気に担ぎ上げた。
 なるべく素早く、レモンを背中におぶって、収まりのいい位置に調整し、そうしてやっと、アイリは走り出した。
 魔法錠をくぐり抜ける――――――――それは何か、この世の境界を踏み越えて帰ってこれたような、そんな不思議な安堵感が心を過った。丁度、教団兵らが、まだ回復し切ってない混乱の中、とりあえず侵入者の撤退を阻止せんと、追撃の歩を始めたころだった。
 外に出て、慌てて振り返る――――――思わず、レモンの重さに振り回されて、後ろによろめきそうになる。
「ヴァリさん! はやく!」
その叫びが、重厚な扉の音に掻き消された。
 ―――?!
 閉まった‥‥? 魔法錠が‥‥‥‥?
 ‥‥‥‥まだヴァリさんが出てきてない!!
 扉の内から声がする。
(先に行け!)
「ヴァリさん?!」
(俺は後から行く)
 そんな‥‥‥‥‥‥あの人数相手に‥‥‥‥‥一人で‥‥‥。
「なに言っ‥‥」
(いいから行け! 三人とも死にたいのか!! そこはまだ、安全じゃねえぞ!!)
 魔法錠からの脱出に成功したとはいえ、ここはまだ教団深層部。どんな危険に遭遇するかわかったもんじゃない。それにレオンは、レモンの命をアイリに託したのだ。アイリには意識不明のレモンを守るという使命がある。
「ヴァリさん! 必ずだよ! 必ず、戻ってきて!」
一体誰が、想像できただろう。 三人の冒険が、こんなことに‥‥‥‥こんな事態になるなんて‥‥‥。ずっと今まで、うまくやってきた。どんなことでも乗り越えてきた。そんな三人だった。‥‥‥‥‥いつもと変わらない冒険だと、思っていた。
(ああ! お前らも気をつけろよ‥‥)
アイリは走り出した。

 

 アイリたちが行って、一人、室内に残されたレオン。
 圧倒的優位な立場にありながら、女一人にやり込められ、むざむざ逃走まで許してしまった教団兵らは、その反動、狂人的な殺意に血液を滾らせていた。その集団心理は対象を、いまや一人となった巨体の男に集約する。
 依然として絶望的な状況のように思えた。だが‥‥‥‥。
 三人には三人の戦い方があるように、一人には一人の戦い方がある。
 もう守る者を気にした位置取りは必要ない。己の周りは敵しかいない。
 360°必殺の構え!
 敵陣の真っ直中、巨漢の戦士は躍り掛かった。

 

 硝子の砕ける音が響き渡り、キラキラと破片が辺りに飛び散った。
 魔源灯が破壊されたのだ――――――レオンの大剣によって。
 すぐさま、進路を変えて攻め上げるレオン。教団兵たちはその突進を阻むこと能わず、程なく通路向かいの魔源灯も破壊された。
 二つの光源が失われ、周囲に立ち込める暗闇の濃度が強まった。
 その意図を汲んで漸く、必死の防衛を試みる教団兵。その抵抗は苛烈だったが、もはや空気は呑まれていた。
 明度を減じた通路内、兵たちの動きは鈍った。じりじりと戦力を減らされながら、敵の進攻を食い止めることが、出来ない。
 彼等が最後に見たのは――――――揺らめく魔源灯に照らし出されて、凄まじい形相で大剣を振るう、鬼人の如き戦士の姿だった。
 遂に三つ目の魔源灯が破壊され、辺りは漆黒に覆われた。
 通路にはまだ一つ、四つ目の魔源灯が吊られていたが、これは先の戦闘で血飛沫を浴びて、充分な光量を周囲に届けていない。
 視界を奪われ、狼狽える教団兵たち。
 目標を失い、いつ襲われるかも分からない闇の中、下手に動けば自らの得物で味方を傷つけてしまう恐れすらあった。
 突如、金切り声が上がった。
"ぎゃあああああああ"
 その悲鳴は、すぐ近くの者達に"場所"を知らしめたが、遠くの者達は壁や床の反響によって正確な位置を把握できず、ただ不安だけを募らせた。
 音や気配から、どこかで戦闘が行われているのは分かる。だが、殆ど何も見えない暗闇の中、何を、どうすればいいか、判らない。
 ぶつかり合う金属音、そして、悲鳴。聴覚のみを恃んだ情報は、同士たちが被害を出しながらも、依然として"敵"が生存していることを意味していた。
"わああああああああああ"
同士の叫び声――――――というより、殆ど喚き声に近い。まるで死に神に向かって突撃する死兵の断末魔‥‥‥。そして‥‥‥‥‥‥静かになる。
 教団兵たちは息を呑んだ‥‥‥‥。
 これこそ、レオンの目論見であった。
 幾らレオンであっても、あの数相手の戦闘は無理がある。だが灯りを消して視界の自由を奪ってやれば、敵は数の多さに却って身動きが取り辛くなる。一方こっちはもう孤軍、自分の命以外、守るものは何もない。辺りは全て敵――――――鎧であろうが兜であろうが斧槍だろうが、構わない。目に映るものも、映らないものも、全て斬り捨てる! レオンは力の限り両手剣を振り回した。
 軋む鉄盾、撓む長柄。大剣ツヴァイヘンダーが空を斬って、唸る!
 当たれば致命傷、当たらなくても、その剣圧は敵を尻込みさせた。
 味方もなく、退く道もない。崖っぷちの戦士は、さながら怒れる雄牛。死に物狂いで、斬り捲った。
 ただでさえ視界の利かない闇の中、飛んでくる大剣の無軌道さに、教団兵たちは近寄ることすら儘ならない。おまけに後ろは遊兵だらけである。暗闇に敵を見失ったか、或いは、意図的に見失っているのか‥‥‥‥。数では圧倒的に勝る教団兵たち。それだけに一人ひとりは命が惜しかった。強者とはいえ、敵はたった一人なのだ。放って置いてもいつかは力尽きるだろう。そして、この暗闇‥‥‥。
(決着は、自分の関わらぬ所でつけばいい‥‥‥)
(あのような傑物に向かっていこうなどと、正気の沙汰ではない‥‥‥)
(命がいくつあっても足りやしない‥‥‥)
こうなってはもう、数は足枷でしかなかった。
 闇の中、一人猛るレオン。様々な思惑、打算を孕んで教団兵たちは萎縮している。それがレオンに天地自在の攻撃を許すこととなった。
 187cmの巨躯。隆々たる筋力と、若くしなやかな全身のバネ。上肢と下肢は巧みに連動し、底なしの膂力が開放される。まるで巨大な猫科の猛獣のように、レオンの筋肉は躍動した。
 最初めくら殺法だった剣筋は、徐々に修正を経て的確さを帯びてくる。肉を抉り、骨を砕き‥‥‥‥‥血煙が舞った。
 ただでさえ一対一では敵わない力関係、その劣等感が、どこから襲われるからわからない不安と相俟った。視界を奪われた人間が、まともな精神を保つのは難しかった。
"かかれ!"
小隊長が叫んでも、指示は闇と悲鳴に掻き消されて、行き届かない。敵もさることながら、それ以上恐ろしい存在に兵士たちが呑み込まれつつある。この状態を回復する術など在るだろうか‥‥‥。その間も、同士たちは一人ずつ消されていく‥‥‥‥‥。焦燥が彼を襲った。手には汗が滲んでいた。はり叫ぶ指揮は悲痛さを伴った。"落ち着くんだ!"
 不自由な視界の中、ねっとりとした"液体"が降り注ぐ。‥‥‥‥‥‥それが一体なんなのか、その正体は、確かめるまでもない。
 と、その時。暗闇の混乱の中、ある兵士は重量感のある"物体"の投擲を受けた。物体はフットボールくらいの大きさ(それよりやや小さいようである)。視界の利かない中、不意をつかれての攻撃に、驚きはしたものの、ダメージは少なく済んだようだった。"物体"は足元に転がり、兵士は思わず身を屈めてその正体を、確認をする‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
 阿鼻叫喚!!!
 予想だにしなかった事象に、準備のない心の防壁は脆く突き破られて、侵されて限界に達した極限の精神状態のみが発し得る悲鳴が、通路に木霊した!
 耳を劈く悲鳴の反響! それが全ての教団兵に動揺を誘う。
 恐慌―――――――もう何も考えられない。もう自分の命以外に惜しいものは何もない。ここで何が起こっているのか、わからなくて構わない。
 ある者は滅茶苦茶に槍を振り回し、ある者は石床に石床に突っ伏して泣き叫んだ。ある者は逃げ出そうとして、壁や味方にぶつかった。倒けつ転びつ、ここから早く遠ざかりたかった。生きた心地がしなかった。
 暗闇の支配下、悲鳴と喚き声だけが響き合った。
 もう誰もこの事態を止められない。制御不能のパニック状態! 精神は破綻した。全然関係のない所で同士討ちが始まり、夥しい血が流れた。救いようのない殺戮! 自分以外は全て敵に思えた。自分が傷つけられるより何倍もマシだ。その為に、武器はある。
 暗い影が信者たちを覆っていた。無明の闇に包まれて、彼らは皆、生きながらにして地下国に落ちたのだ。

 

(‥‥‥いける‥‥‥‥いけるぞ‥‥‥)
戦士の脳裏に淡い期待が過った。
 アイリ達を逃がして一人残った時は、死すら覚悟して臨んだものである。しかし今、大剣を握る両手は確たる手応えを感じている。
 或いはそれは、淡いものではなかったかもしれない。
 時間が経って、目がだんだんとこの暗闇に慣れてきた。そこに映し出されたのは、もう大分数を減らし、疎らになった教団勢の軍容だった。
 半ば信じられないことだった。最初は通路に犇き合うようにいた教団兵である。それが、今は暗闇の中に点在するばかり―――――数えられる程しかいない。これまでずっと、無限に湧き起こるように後から後から増援を繰り出した教団兵、それがここまで戦力を減少させていたのである。まだ一対多数の不利は変わらないとはいえ、状況をそこまで有利に運んできた、その自信がレオンに、未来への希望を想起させる。
 レオンは疲弊していた。大剣を振り回す肩や二の腕は痛みが走り、柄を握る両手の握力は馬鹿になっていた。太腿はもうパンパンだ。肉体には限界がきていた。だが、心には光が灯っている。「いけるかもしれない」―――――生への期待が活力を生み、体細胞の隅々まで震撼させていた。
 大剣を振るいながら、胸の内に旁魄する喜びを、レオンは感じていた。
 その時である。
 忽然、闇の向こうに炎が現れ、教団兵を包んで燃え上がった。
(‥‥‥?!)
 拱門の向こうだった。
 おそらく、教団兵はレオンのいた通路にいて、そこから逃げ出したのだろう。黒い闇の中に織り成される赤い放熱。レオンはそれを疲れ眼で、刹那、不思議と幻想的な光景のように眺めていた。ふと意識が現実に引き戻されたのは、鼻に衝く異臭のせいだった。
 生臭い"ニオイ"がする―――――――生きたまま焼かれる、人間の臭い‥‥‥。
 さっきまで死闘を演じた敵同士でありながら、その不快な臭いに、生理的な嫌悪感を禁じることができない。灼熱の業火に焼かれ、それは悶え苦しみながら、動かなくなっていった‥‥。
 再び火球が巻き上がり、次々と標的を呑み込んでいく。
 火球が暗闇に閃く度、幾人かの焼死体を築いて、壁や床、通路の空間を煌々と濡らしていく。闇に現じた幾重もの小型の太陽が"主"の姿を浮かび上がらせる。鈍重な歩みで"それ"は門をくぐり、やって来た。
 通路内、同じ空間で対峙して明らかになる―――――その重量感。
 大の大人が両手を広げても届かないくらい太い胴回り、それを支える頑強な四肢が地面に着く度、微かな振動、圧迫感が足元から伝わってくる。その巨躯、その威容。
(何だ‥‥‥‥あのバケモノは‥‥‥‥)
全身を覆う分厚く硬質な肌は、焼け爛れたように赤黒い。脊椎には剣竜類に見られる特徴的な骨板が並び、尾部まで連なっている。よく見ると四肢は意外に長く、屈めているため分かり辛いが、伸ばせば人間の身長を上回るくらいありそうだった。そして、その巨大さゆえ計り知れない顎の力。下顎からは長い尖頭歯をおさまりの悪そうに覗かせ、そこから漏れる、荒々しい息遣い‥‥‥。
(こんなバケモノ‥‥‥‥‥ヤツラ‥‥飼い慣らして、いやがったとは‥‥‥‥‥)
 ふと、あの映像が脳裏を掠める。
 通路の向こうにある、開けた空間――――――天井は高く、蝋燭の炎が無数に灯った、「祭壇」の部屋を‥‥‥‥。
(‥‥そうか‥‥‥そうゆうことか!!)
レオンの中で、全てはひとつなぎに繋がった!
 何故ここに、こんなにも大勢の教団信者が集まっていたのか。応酬はここまで苛烈を極めたのか。魔法錠まで施された祭壇の間で、どんな秘密の儀式が行われていたのか。
 全てはこの、バケモノの為だった! こいつと何らかの契約が、ここで行われていたのだ。そのため多くの信者がここに召集されていたのだ。
(‥‥‥‥こいつ‥‥‥‥どうする‥‥‥?)
 眼前に立ちはだかる、自分の十倍以上もの質量を有する巨大な魔獣。いつしか、教団兵たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなっていった。
 河馬のような巨大な口から洩れる息は荒く、その面積ゆえ、熱度を伴った。禍々しい魔獣の視線が今、レオンを捉える。
(‥‥‥‥勝てるのか‥‥‥)
疑念が過った。だが‥‥‥。
 放っておいて‥‥‥いい訳がない。
 この邪神を捨て置くことは、出来ない。
 臆すなレオン。
 こいつを逃して、生きて還る道など、何処にもない!
「ウォォォオオオオオー!!」
レオンハルト・ヴァリーマースは吠えた! 有りっ丈の力で!
 己を奮い立たし最後の力を振り絞った。そしてツヴァイヘンダーを握り締め、巨獣へ向かっていった。

 

 

 だが河馬の化け物は図太い頚部を振るって、ゆっくりと腹の底を鳴動させた。腹部から消化管を蠕動する何かが伝わり、巨獣がやおら、がばっと巨大な口を開くと、その口腔奥に、小さく揺らめく炎を見た。

 

 

 

 

 ‥‥‥グゥォォオオオオオオオーーーーーーン‥‥‥‥‥

 

 

「――――?!」
研究所全体を揺るがす巨大な咆哮に、瞬間、アイリの体は宙に浮いたようだった。‥‥‥‥あんなバケモノが‥‥‥‥‥まだ中に‥‥‥‥?
(ヴァリさん‥‥‥‥‥)
締め付けられるような胸の痛みを抱え、気を失ったままのレモンを負い、アイリは‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥走った。

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